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永遠につづく苦悩は、拷問にあっている者が泣き叫ぶ権利を持っているのと同じ程度には自己を表現する権利を持っている。その点では、「アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない」というのは、誤りかもしれない。だが、この問題と比べて文化的度合いは低いかもしれないが、けっして誤った問題ではないのは、アウシュヴィッツのあとではまだ生きることができるかという問題である。偶然に魔手を逃れはしたが、合法的に虐殺されていてもおかしくなかった者は、生きていてよいのかという問題である。彼が生き続けていくためには冷酷さを必要とする。この冷酷さこそは市民的主観性の根本原理、それがなければアウシュヴィッツそのものも可能ではなかった市民的主観性の根本原理なのである。それは殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である。その罪科の報いとして彼は悪夢に襲われる。自分はもはや生きているのではなく、1944年にガス室で殺されているのではないか、現在の生活全体は単に想像のなかで営まれているにすぎないのではないか、つまり20年前に虐殺された人間の狂った望みから流出した幻想ではないのかという悪夢である。



 テオドール・アドルノ『否定弁証法』より。id:sumita-mさんの霊的危機或いは狂気人が複数居合わせても集団になるとは限らないという二つのエントリを読んでいて「ここでアドルノを取り上げなくてはいけないのではないか(誰もやらないし)」と思っているのだが、上手く言葉にできない。ので今最も痛烈に響くアドルノの言葉を長く引用だけしておく。


 考えていることは二つ。




  • 生き残った者が、その事件について問うことの妥当性について(アドルノ自身に《問い》が返ってきてしまう)

  • 「生きていてよいのか」というよりも「生きるしかないのだ」ではないか(しかし、どのようにして?)





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