偽装的な素朴さについて、少なくとも私にはおっしゃるとおりのように感じています。しかし、その戦略性(“あえて感”というか)が実を結ぶのか、どうか、というところは少し考えてみる必要があると思うのです。必ずそれが戦略の受け手と共犯関係を結ぶことに成功する、とは言えません。
「とりあえず聴いてみて!ホントに面白いんだから!」という素朴さをベタに受け取った人が現代音楽のCDを一枚買ってみる(何でも良いのですが、ヒンデミットにでもしておきましょう)。宮下さんが音楽に関する本を書かれた目的がここでひとつ達成されます。その購入者がヒンデミットを面白く聴くことができたら、宮下さんの目的がまたひとつ達成されます。
しかし、宮下さんの素朴な態度を素朴に受け取ってしまう人がヒンデミットを素朴に拒否してしまう可能性もあると思うのです。「ヒンデミットを面白いと言っていたが、私には面白くなかった!騙された!」――筆者である宮下さんの元にそのようなお手紙が届いていませんか?
仮の話を尚も続けさせていただくと、そこには現代音楽が「素朴に良いもの(上手い例が思い浮かびませんが、ハイドンの音楽の素朴さ、悪意の無さを想像していただけるとよろしいかと思います)」と勘違いされている、という状況が生まれていると思います。
現代音楽は「素朴な良さ」を持っている音楽ではない(残念ながら、と言うべきでしょうか?)。宮下さんの目的が果たされる状況とは、その「《難しくてわからない》音楽」を「素朴に聴く」ことから、まず現代音楽の良さを感じてもらうことのはずです。素朴な耳を持ってもらえないことには、そこへ到達する道は見つかりません。
また、勘違いから生まれる「素朴な拒否」とは、「素朴な耳」を持つ可能性をも食いつぶしてしまうようにも思います(『騙された!』という記憶が、そのような耳を持てなくしてしまう、というか)。「やっぱり現代音楽はわからない」ということを理解されることは避けなければならない。
私と宮下さんの出発点がそう遠くはない、というのは私もそんな風に思います。私も同じように素朴な耳からはじめようとしているつもりです(だからこそ、激しく噛み付きたくなるのかもしれません)。そして私もまた小沼純一へのリスペクトを捧げる(というか単なるファンですが)者の一人ですし。もしかしたら、宮下さんを小沼ハト派、私を小沼タカ派、という風に分けることができるかもしれません。これは冗談ですけど。
自分の態度について語るのは恥ずかしいので止めておきます。ひとつだけ。私は「瓶に入れて海に流された通信」(これはアドルノがシェーンベルクの音楽を評した言葉でもあります)のように音楽を語りたい、などと思っています。
コメント、どうもありがとうございました。
最後の引用、実に美しいですね。タカ派などとおっしゃっていますが、mkさんは、硬派ロマンティカーだと思っています(勝手な印象ですが)。本の順番としては『20世紀音楽』、『クラシックの終焉』、『迷走する音楽』の順に読者には読み進めて言っていただければいいと思っています。なるほど素朴な耳を持ってもらえなければ僕の「仕掛け」は外れます。だkららひたすら面白いと書き続け(今のところヒンデミートがつまらないといった感想は寄せられておらず、むしろ反対にたとえば急いでデッサウを探して聴いてみたら凄かった。といったご意見が大勢を占めているようです。音楽の力とでも言うほかないもの、そのことにひたすら身を寄せ、書き綴ったわけで、聴いてもらわなければ始まらない、というのはそういうところから出た「素朴さ」です。「素朴な耳」には、虚を衝かれましたが、なるほど、聞いてみたらだめだった。という方向に20世紀音楽の聞き手を失うのは残念ですね。僕にできることはこういう形で皆さんとつながり、議論しながら(たとえば20世紀に生まれた音楽を20世紀の「クラシック」音楽と呼ぶほかない現状)に風穴を開けるよう努めることじゃないかと思っています。mkさんの辛口でクリスタルな批評言語が、多くの人に読まれることを期待しつつ、
返信削除