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続・「農業=のんびり」を強烈に批判する




金太郎


『サラリーマンは対人関係が非常に多くそのストレスが尋常じゃないから、自給自足の他人との衝突が少ないであろう農業がのんびりに思えるってだけですね。自分もその1人です。農業でやってる事は物凄い大変だと思います。


大変さの意味合いが違うので、「サラリーマンの大変さを耐えられない人が、農家の大変さに耐え切れるわけがない」てのは間違ってると言いたいだけです。サラリーマンの大変さも理解して頂きたいです。』


 先日書いた農業についてのエントリ*1にこんなコメントがつきました。金太郎さん(サラリーマンだから金太郎なんでしょうか。なんてユーモラスなんでしょう。愉快な人だなぁ!)、コメントありがとうございます。人間関係とか大変ですよね、サラリーマンって。「自分は酒が飲めないのに無理して酒の席にいかなくちゃいけない(本当は観たいアニメのDVDとかあるっていうのに……!!)」とか「自分はこんな風に働きたいのに周りのおかげで上手くできない」とか「自分より偏差値が低い大学を出てるバカな上司が俺より給料貰ってるのがムカつく」とか、色々ありますもんね。私もサラリーマンなのでそういう気持ちはなんとなく分かる気がします。まぁ、会社に入って日が浅いので幸いそういった苦労は今のところ味わっていませんが。


 しかし、金太郎さんは「自給自足の他人との衝突が少ないであろう農業がのんびりに思える」とも仰っています。たしかに、農業というのは家族経営の自営業みたいなものですからバカな上司もいませんからその分は楽かもしれません。ただ「他人との衝突が少ない」なんてことはありません。もしかして「農業は自営業みたいなものだから、自分の好きなように仕事ができる」なんて思ってませんか?あるいは「田舎の人は心が温かい」なんて思ってたりするんじゃないでしょうか?


 もし、そんな風に思ってたりなんかしたら、私は両手を挙げて金太郎さんの想像力を賞賛せざるを得ないでしょう。まったく、想像力が活発すぎです!(もしくは日曜の昼ぐらいに再放送している『田舎暮らし番組』の観すぎです!!サラリーマンならちゃんとNHKの放送料金を払って『クローズアップ現代』を観るべきです)


 たしかに、農家の人には上司なんていません。だからと言って自分が好き勝手に仕事が出来る……なんてことは全く無いのです。まぁ、朝早く起きて桃の収穫に行くのが無理っていうならゆっくり10時ぐらいに起きて、熱帯のジャングルのごとき畑のなかで収穫作業に勤しむのも良いでしょう。そういう部分は自由です。ただし、生命の危険に晒されると思いますが。「今日は疲れたから仕事を休もう」っていうのも自由です。ただ「今、穫らないといけない桃」がボトボトと落ちたり、売り物にならなくなりますけど。でも、自分の家が食えなくなるぐらいで文句を言われることはありません。隣の農家の人が「あの人んちはバカだなぁ」と思われるだけです。


 少し話が脱線しているので、金太郎さんが仰る「人間関係」の方に話を戻していきたいと思います。実際には、農業もまた人間関係を重要にする仕事なのです。自営業的だけれども、非常にそこでは同業者との連携が必要で、むしろ、そういった「横のつながり」を絶対に乱してはいけない仕事なのです。おそらく、調和を乱すことがタブー視される強度は、田舎にいけばいくほど強くなるでしょう。そのへんの恐ろしさは、id:FUKAMACHIさん、id:ayakomiyamotoさん、id:throwSさんのブログを精読し、勉強なさってください。


 例えば、農薬散布。金太郎さんはサラリーマンですから「きっと時期が来たら好き勝手に各農家が撒いてるんだろう」とお考えかもしれません。でも実際は、農協の人が会議を開いてくれて「今年はこの時期に撒きましょう」と言う感じで決定されて各農家が撒き始めるわけです。もし、この輪を乱したらどうなるか――例えば、都会の生活にくたびれて田舎で農家を始めた人が、時期より早く勝手に撒いちゃったらどうなるか……それが害虫対策の農薬だったら。そんなことしたら大変です。その人の家の畑にいる害虫が全部周りの農家の畑にいってしまいます。「オメェ、ウヂの畑を潰す気が!!」と怒鳴りこまれるのがオチです。


 乱してはいけないのは仕事の和ばかりではありません。誰かの息子・娘が自殺した、変な宗教に入った、カツラを被っている、会社の上司と不倫した上に妊娠しちゃって、その上生まれてきた子どもが知的障害者だ、なんてことが起こった場合、確実に村八分です(ちなみに以上で挙げたものは全て私の実家の近所で起こった実話)。「あの家を村八分にする」と寄り合いで決定されるわけではありませんが、自然と疎遠になっていき、その家の人たちはそれからずっと日陰者として生きていくことになります。


 田舎では「ウチの親父が病気して、今年は働けない」となれば、誰か他の家が手伝ってくれる(このあたりが『田舎=温かい神話』の源流かもしれません)ことがありますが、当然村八分にされたらそんな援助が受けられません。また、高価な機械(トラクターとかそういうの)を共同購入して使う、という輪の中からも追い出されてしまいます。そのあたりのリスクはサラリーマンと一緒です。大体、最初から私は「農業はサラリーマンより大変だ」なんてことが言いたかったわけではなく、「農業=のんびり」っつー幻想にイラッときただけなので、このあたりは金太郎さんの勝手な誤読です。っつーか、世の中にユートピアなんかねぇんだよ!馬鹿!!農業だってサラリーマンと同じぐらい大変なんだから、サラリーマンができないヤツに農業なんかできねぇよ!と言いたかっただけです。


 でもやっぱり、サラリーマンはまだ良いかもしれません。もし、サラリーマンであるところの金太郎さんが私と同い年の新入社員の女の子と不倫してバレて会社にいられなくなったとしても、最悪、転職すれば良いじゃないですか。人間関係で問題が起きたら、自分から身をひいて自分が生き生きと仕事ができる場所を探せば良いのです。現実として、過酷な道かとは思いますけど「会社の上司がすげぇバカでさぁ……」とかグチを聞いたら「じゃあ、自分から状況を変えていく努力をすれば良いんじゃないの?」と正直私は思いますよ(飲み屋でグチってるエネルギーがあるなら、自分で状況を変えるほうにまわせば良いのに……)。面接で「これまで培った業務知識を新しい場所でもっと有効に生かしてみたくて……」とか言えば良いじゃんか。


 農家の人はそんな風に「ダメなら別の場所にいく」なんてことはできないんだよ。






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