久しぶりにコンテンポラリな日本の作家の小説を。そしてこれが久しぶりに「小説を読むってこんなに楽しいものだったんだ!」という感覚を味あわせてくれる素晴らしいものだった(最後にそんな気分になったのは、なにを読んだときだろう)。購入したのは2日前のことで、それから暇さえあれば貪りつくように読まされてしまった。そういう引力をこの作品は有している。そして、村上春樹流の言葉で、その引力に捕らわれた様子を表現するならば「どこか別な場所へと連れて行ってくれる」ようなものである。
村上春樹が書くような文章によって、そういった結果が生み出される、ということはとてもすごいことなのではないだろうか、と読んでいる間に考えた。なぜなら、そういった力を持つ物語を書くには、衒学的だったり、異様な勢いがある言葉が必要だ、と思っていたからだ――例えば、中上やラテン・アメリカの作家たちのように。物語に限定しなければ、私にとってアドルノの文章はそのように作用している。だが、村上春樹の文章はそうではない。過剰とも言える比喩が多用されるにしても、あくまで流れは自然である。それは力づくに、ではなく自然に導くようにして、私をどこかに連れて行く。
そこで私は、大いに楽しい時間つぶしができる。もうひとつ、なにかを考えるきっかけ(あるいは媒介)を与えられる。この2点があればその作品は読む価値がある、という風に(少なくとも私には)言える。繰り返すようだが、『1Q84』という作品は私にとって、大いに楽しい時間つぶしができるものであり、そして、なにかを考えるきっかけ/媒介を与えてくれるものだった。
作品の内容について、ここでは触れるべきではない(『なにも知らずに読んで欲しい』というのが作者や出版社の意向であるので避けておく)が、できる限り内容を紹介しないように思ったことを書いておく。村上春樹の仕事のなかで『アンダーグラウンド』というインタビュー集は、大きなターニング・ポイントとなっている、という風に私は思っている。そして、この作品もまたポスト『アンダーグラウンド』的なものだ、という風に思う。もっと言ってしまえば、ポスト・オウム的な小説である。
物語にはエホバの証人や、ヤマギシ会、そしてオウム真理教のような団体が登場し、それらの団体が持っているであろう問題が述べられ、間接的に審査にかけられる。そこで問題となるのは「その団体が与えている問題解決の方法は、極めて限定的なものである」ということだ。彼らがおこなう《治癒》は、汎用性を持たず、そして何らかの代償を払わなくてはならない。例えば、全財産を投げ出し、自らの主体的意思を投げ出せば、「あちら側の世界」へと入ることができる。たしかにそれは現実的な世界が生み出すしんどさから解放されるための手段として有効かもしれない。しかし、問題がないわけではない(主体的意思を持たない人間の幸福、とは果たして幸福なのか)。それらの団体は常にものごとの良い面しか伝えようとしない。『アンダーグラウンド』の続編『約束された場所で』で提示された疑念がここでも反復される。
また、治癒をとりあげて作品を眺めてみると、この作品全体が治癒の物語と呼ぶこともできよう。おそらくそれは斎藤環がうんざりする類の典型的な「トラウマ話」と呼ぶことができる。このような物語は、言ってしまえば『リーサル・ウェポン』と同様だ。しかし、『1Q84』では治癒が最終的な救済として描かれることはない。そもそも主人公たちが受けた傷は、別なものによって埋められるだけで、彼らは「あちら側」に旅立つことなく、「こちら側」にとどまったまま、生きることを選択する――これはそもそも治癒とさえ呼べないかもしれない(起こってしまったことを打ち消して、問題が生じる前の状態に戻すことは不可能であることがここでは明示される)。
とどまり続けることがこの作品のなかでは肯定されているのだろう。あちら側に足を踏み入れることなく、別な生き方を選択することの可能性が提示されている、と言っても良い。全面的かつ最終的な救済はありえない。しんどいことは再びやってくる。しかし、それを受容しなければ、また別な幸福の可能性もあり得ないものとなる。それは的を射た意見だし、同意もできる考え方だと思う。
とても面白い本ではあるが、感動などとは無縁の本で、読んだあとにいくつもののしこりが残る(かなり嫌な気持ちになる部分も多い)。しかし、そのしこりもまた受容されなければならない種類のものであろう。ここに留まり続けることに同意するならば、問題を反復的に問い直し続けることは必要なことなのだ。
私はこの本をまだ読んでいません。売れ行きが落ち着いた頃に、それが何時ごろになるかわかりませんが読もうと思っています。「アンダーグラウンド」がと言うよりも地下鉄サリン事件が村上春樹にとって大きなターニングポイントだったと私もあの本を読んで感じていました。確か彼が後書きだったと思いますが「このままだとこの事件は将来ただオウム心理教が起こした事件ということだけで終わってしまう。」と言うようなことを書いていたのを覚えています。「約束された場所で」も同じ意図で書かれたのでしょう。村上春樹が支持される理由は、この事件を被害者、加害者の個人レベルでの記録を残さねばならないと考えた感性ではないでしょうか。私もあの長い本を引き込まれて一気に読んだ記憶を思い出しました。
返信削除>私は逆に『アンダーグラウンド』以降の村上春樹の展開というのはそこまで意識されていないのではないだろうか
返信削除mk さんの言葉遣いに完全に同意するわけではありませんが,確かにオウム事件が村上春樹にとってどれだけ重要な意味を持っているのか,私も怪しいと思います.
大学生の頃、村上春樹氏の本は読みましたよ。
返信削除ノルウェーの森以降は読んでいないですね。
「読んだ後にいくつものしこしが残るが、そのしこりも受容されなければならない」という文が心に残りました。
しこりを受容するというのは、痛みを受容するの具体的な姿ですね。
なかなか、痛みを受容できない自分にとってはいい薬となりました。
村上春樹の本です。面白く無いはずはありません(1Q84のことです)。
返信削除だけど、あの終わり方は・・・どうなんでしょうか?
ぐいぐい読ませる話自体の面白さや、ここでこうつながるのかー、といった
パズルのピースが組み合わさったときのような快感を感じさせる力は抜群だと思います。
でも、エンディングは意外な程あっけないし、
そうなる意味がよく分からなかった。
続編が控えていなければおかしいような気がしたのは、
私だけなのでしょうか?
「村上春樹が支持される理由は、この事件を被害者、加害者の個人レベルでの記録を残さねばならないと考えた感性ではないでしょうか」この点について、私は逆に『アンダーグラウンド』以降の村上春樹の展開というのはそこまで意識されていないのではないだろうか、と思っています。ともあれ、コメントありがとうございました。
返信削除1Q84年は物語中ではまだ半年しか経っていません。これは読売新聞社の作者インタビューでも指摘されていたことですが、これに対して作者自身、続編があるかもしれない(しないかもしれない)ことを示唆する発言しています。私としては、あってもなくてもどうでも良いのですが(物語がすべて解決されて終わらなくてはいけない、という法律はないことですし)。
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