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菊地成孔 大谷能生『アフロ・ディズニー――エイゼンシュテインから「オタク=黒人」まで』




アフロ・ディズニー
アフロ・ディズニー
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菊地 成孔・大谷 能生
文藝春秋
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 菊地&大谷名義による前著『M/D』は読んでいませんが*1、こちらの新刊『アフロ・ディズニー』はなかなか興味深く読みました。しかし、発売から一ヶ月ほど経過したというのに本の感想なり、評判なりというものを一切目にしないのはどういうことでしょうか。菊地成孔って「今をときめく話題のアーティスト」じゃなかったのか? とはいえ、なんとなくその理由も推察できようというものです。というのも、慶応大学で行われた講義を元にした講義録、という形は、数年前にかなり売れたらしい『東京大学のアルバート・アイラー』と同じですが、『アフロ・ディズニー』では『東大アイラー』で見られたようなギャグ/脱線要素は一切カット。ホンモノの学術的講義録のような文体は、一般的な読者層*2から遠ざけられるのもモットモも言った感じであります。笑える要素はかろうじて、著者二人による後書のみ! というちょっとハードコアな内容。




 しかしながら、この本で語られているいくつかのトピックは、音楽批評、あるいは映画批評に興味を持つ人であれば、必見のものであると思います。それらがあまりに多岐に渡っているため、すべてをフォローしているとは言えませんが、個人的に強く興味をもったモノをいくつかあげておくならば「視覚と聴覚との分断」、「二〇世紀カルチャーの幼児性」がありました*3。精神分析のジャーゴンを用いて、分析をおこなっていく講義は、胡散臭さをプンプン撒き散らしながら「これまで誰も注目してこなかったトピックを掘り出して見せた」という点だけでも評価に値しましょう。



グラスがテーブルから落ちて割れる、ということが目の前で起こった際、もしそれから音が聞こえなかったとしたら、われわれはほとんど白昼夢を見ているかのように思うでしょう。そこでクラッシュ音を脳内で充当させ、それで納得する。ということは、おそらくしないと思います。逆に、ある衝撃音が聴こえ、しかしその原因が視覚的に見えなかった場合、われわれはすぐにそれがどのような原因に結びついているのかを探し、見えなかったその運動を想像力でもって補完して、自身を納得させます。(P.115)



 「目には瞼があり、視覚情報は任意に遮断することは可能だが、耳には瞼がない」という(非常にシンプルだが、意外にハッとさせられる)指摘からも感じられるように、この議論では視覚に対する聴覚の優位が指摘されているように思います。なんか構造主義の概説本あたりで目にした記憶がうっすら蘇ってくる様な話ですが、聴衆論/観客論的には大変興味深い。最近「音楽だけを聴くよりも、音楽と映像とを一緒に視聴できる映画を観ている時のほうが、集中している気がする。これはアドルノが警鐘を鳴らしていた分散的聴取とは真逆の現象ではなかろうか」と考えたことを思い出してしまいました。





 映像論的には、モンタージュ技法は、世界に含まれたノイズ性をリダクションし、物語的なモノへと編集してしまう、ということが説かれます。これもナルホド! というお話でした。コレに対して、音楽が映像に与える効果とは、映像に対してリアリティを与えるものである、と。ここから映像と音楽のシンクロ/非シンクロ性について、ディズニーやゴダールが語られますが、この視点も大変面白いです。この視点から監督、クリント・イーストウッドも語られてしかるべきだと個人的には思っています。





 なお『アフロ・ディズニー』は講義の前半部を収録したモノとなっており、後半部分の予告として豪華なゲスト陣の名前があがっています。後半も実に楽しみになってきました。




*1:マイルス・デイヴィス論……とフォーカスを絞られるとあまり食指が動かない……というか


*2:自分で言いながら、よくわからない線引きですが


*3:この他に議論の骨子となる歴史観として『東大アイラー』でも触れられている「音楽理論史」がありました。こちらは『東大アイラー』のときよりも説明が洗練されているように思えました





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