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シベリウスの交響曲第6番




シベリウス:交響曲第6番&7番、タピオラ
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 先日の『N響アワー』*1で放送されていたのを聴いて「これは……なんだか素晴らしい作品ではないか!」と思ったのが、フィンランドの作曲家、ジャン・シベリウスの交響曲第6番でした。





 マーラーやブルックナー以上にハードコアなファンが多いこの作曲家のファンは口々に「シベリウスは後期が断然に素晴らしい」と言っているのが、完全に理解できた気がします。触れた途端に崩れ落ちてしまいそうなほど繊細な美しさをもつ第一楽章冒頭からして、気持ちがどこかに持っていかれてしまいます。



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 いきなりクライマックス直前のような緊張感が呈示されますが、この緊張感はなかなか最高地点まで達することなく、じわじわと適度な快感ポイントを漂います。いつ、絶頂はやってくるのか……!と期待が持続するのですが、いつのまにか次の楽想に移ってしまう。



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 つづく、第二楽章も似たような感じで進行していきます。音楽は徐々に高まっていくのですが、劇的な絶頂感は訪れることがない。独特な構成に魅了されると、シベリウスの音楽に病みつきになっていくのでしょう。しかし、これは「どこで終わった/終わるのか分からない」という分かりにくさを生むものでもあります。



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 第三楽章にきて、ドイツ音楽のような劇的な絶頂が訪れる感じでしょうか。「ズズッ、ズズッ」と刻まれるリズムが楽章全体を支配しているのですが、時折、金管楽器が長いクレッシェンドで入ってきて、最後にフォルテッシモで〆るところを聴くと「ああ、シベリウスの音楽ってこんな感じだよなぁ」と思います。



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 第四楽章。この美しい作品が発表されたのは1923年、時代区分的にはこれもバリバリの「20世紀音楽」なのですね。パリやヴィーンといった音楽文化の中心地では、とっくに無調や≪春の祭典≫スキャンダルが起こっており、前衛がバリバリと活躍していた頃に書かれている。それを考えれば、シベリウスがこのような調性作品を書いたことは「時代遅れ」だったかもしれません。





 しかし、シベリウスも時代の流れとは無関係に作曲活動をおこなっていたわけではありません。これ以前に書かれた交響曲第4番(1911年初演)では、かなり調性感が希薄で晦渋な音楽を書いていますし、そういった音楽文化の中心への意識はあっただろう、と推測できます。だが、シベリウスは、第6番のような「美しさ」を選択した。それは調性という過去へ踏みとどまる、という反動的なものではなく、それが自分の音楽である、という選択だったのだ、と考えると、ますます感慨深いものがあります。




*1:司会が池辺先生から西村朗に代わってから、あまり観なくなってしまいました……





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