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フランソワ・ラブレー『ガルガンチュアとパンタグリュエル 第四の書』




ガルガンチュアとパンタグリュエル〈4〉第四の書 (ちくま文庫)
フランソワ ラブレー
筑摩書房
売り上げランキング: 10863



 昨年から待ち望んでいた『ガルガンチュアとパンタグリュエル』新訳の第四巻を読みました。この『第四の書』が書かれる前に、パンタグリュエルの部下であるパニュルジュという登場人物を主人公としたスピンオフ作品『パニュルジュ航海記』がラブレーとは別人の手によって刊行されていたそうです。今で言う二次創作みたいなものが、四五〇年以上前のフランスには既に存在していたことを考えれば、なんだか「二次創作はポスト・モダンの云々」といった分析が脆くも瓦解してしまいそうですが、ラブレーが“ポスト・モダン先取り感”を強めているのは、別人の手によって書かれた二次創作のストーリーをパクッてこの『第四の書』のなかに取り入れてしまっているところでしょう。このような話はセルバンテスにもありましたから、特段珍しくもないのかもしれません。『ガルガンチュアとパンタグリュエル』自体、当時のフランスに流通していた伝承譚『ガルガンチュア大年代記』を元に書かれたものですから、そもそも二次創作っぽいところがある。





 前巻である『第三の書』では、パニュルジュは結婚するべきか/しないべきか、をめぐっての大論争がメインとなっていましたが、『第四の書』はその問題の結論をつけるために「聖なる酒びん」のご託宣を授かるための船旅に出ましょう! という始まり方をします。しかし、一筋縄にいかないのがラブレーなわけで。フタをあけてみると「聖なる酒びん」のことなど忘却のかなた。様々な島を巡っては、妙ちくりんなキャラクターや怪物がでてきて大騒ぎ……。風刺と下ネタのオンパレード。結局、最後まで「聖なる酒びん」にたどり着くことはありません。ラブレーと言えば教科書に載るぐらい古典視されている人物ですが、その実体は、解読不能な言葉遊びも頻発し、ジョイスとピンチョンが束になっても適わないような恐ろしい小説を書き残したトンデモないオッサンなのでした。ピンチョンや莫言を読むなら、まず読むべきはラブレーではないのか、と私は思います。ポスト・モダン小説で注目される手法のほとんどが『ガルガンチュアとパンタグリュエル』には含まれている。





 てっきりこの巻で完結かと思っていたら、偽書の疑いが強いらしい続編『第五の書』も翻訳されるのだとか。これも楽しみになってまいりました。







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