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伊藤聡『生きる技術は名作に学べ』




生きる技術は名作に学べ (ソフトバンク新書)
伊藤 聡
ソフトバンククリエイティブ
売り上げランキング: 564


 『空中キャンプ』の人こと、伊藤聡さん*1の単著をとても楽しく読む。これはとても素敵な文章が収録されていて、読みながらなんだか数年後に高校入試や大学入試の現代文の問題に採用されてもおかしくないな、というぐらいに深い意味が各所に散りばめられた本だった。仮にこの本から問題が出たら受験生はすごく喜んでしまうと思う――なぜなら、とても読みやすくて、意味もとりやすいから。大澤真幸のようなパースペクティヴから、じわじわと意味が掘り出されていく過程が鮮やかだ。それから宮本さん*2が描いているイラストにもいろんな意味で驚きました。宮本さん、人間も描けるんですね!(失礼)





 私が最も好きなパートはヘッセの『車輪の下』についてのところ。冒頭がいきなり落合博満の話から始まる落差がとてもひきつけられる(スゴい書き出しだ!)のもあるのだが、なにより「こどものときってオトナになってしまってから振り返ると恥ずかしくて、バカなことをやりがちだけど、そう言うのって大事だよね」と認める大らかさを感じるところが心地よいのだ。例えば筆者は『車輪の下』の主人公ハンスの、エンマという女の子にたいする初恋の部分からこんな部分を拾ってくる。



エンマと知りあったハンスが、なにやら内側から自分をつき破るような衝動に駆られ、「今日中にもう一度エンマに会わなくてはいけない」と決意するくだりなど、思春期ならではの性急さに満ちており、ハンスの切実さと自発性が見て取れる、数少ない機会である。



 ここで筆者が指摘している「思春期ならではの性急さ」に私はハッとしてしまう。たしかに、オトナになってしまうと、恋愛ごとにしても何にしても「性急さ」を失ってしまう。「今・ここで!」という風に、思いを馳せる女性と話したくなるような機会はどんどん少なくなってしまう。例え夜中にあの人の声が聴きたくなったとしても、お互い明日も会社があるんだし、迷惑になるかもしれないし……と考えると、ビールを2本ぐらい飲んで寝ちゃおうか、という気分にもなる。同時に「今・ここで!」電話をかけたとしても、彼女の気持ちが劇的に理解できたり、変化したりしないことを、オトナは学習してしまっているのだ。こうしてオトナからは性急さというものが失われていく。そして、その減衰はいつの間にか進行し、気がつくと我々は立派な、落ち着いたオトナになってしまうのではないだろうか。





 そこで改めて「思春期ならではの性急さ」を見つめなおしてみると、それらはなんだか空回りばかりする、無駄なエネルギーの消費にも思えてくる。そしてそういったエネルギーが発露された経験は、多くの人たちにとって恥ずかしい体験でもあるように思う。そういった体験は無論、私にもある(家族に聞かれるのをはばかって、電話の子機をもって風呂上りの前髪が凍るような東北のクソ寒い夜に外で電話してみたり……とか)。多くの場合それらはごく親しい友人やオトナになってから出来た親密な異性に、遠い眼をしながら打ち明けるエピソードとなってしまう。





 しかし、筆者はこのような恥ずべき経験を、まさにその年代にしかできない行為であるから肯定してしまうのだ。この筆者の評価は読み手に一種の落ち着ける場所を与えてくれるものであろう。あの恥ずべき体験は、あの瞬間にしか為しえない「かけがいのないサムシング」として価値が転換されるのだから。この切り口はどこか、みうらじゅんや伊集院光のようなDT評価のまなざしとも似ているが、彼らのように笑い飛ばすのではなく、大真面目に認めてくれるようなところが筆者には感じられる。筆者のオリジナリティが最高に発揮された視点はここだ、と私は思った。






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