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ブリューゲル版画の世界 @Bunkamura ザ・ミュージアム





 ブリューゲル(といえば一般的には農民の生活を描いた絵、あるいは上記のジクソーパズルになっている油絵で有名な画家として知られていますが)といえば16世紀のネーデルラントを代表する画家でありまして、それは同時に16世紀的な表現者の代表者ともいえましょう。今年は『ミクロコスモス』*1も出ましたし、このあたりの初期近代の精神史と密接に絡みあう分野が偶然とは思えないほどに熱い年であることを感じさせるそういった展示でした。ミュージアム・ショップに並ぶ「関連書籍」も、アタナシウス・キルヒャーに関する本ややコメニウスの『世界図絵』など直接関連してはいないもののの、的を射すぎるセレクトで素晴らしかった。美術畑のことは実際のところよくわからないのですが、こうして16・17世紀の想像力が高まりすぎた世界観が表現された美術にフォーカスがあてられる企画展というのは、個人的に好ましく思われ、それはフリークス的な見世物小屋精神と隣り合わせのようにも思うのですが、なにかカッコに入れて「美しいもの」として展示されているものとは明らかに違っていて、ひとつの刺激を与えてくれる。良いイベントだと思います。私は図録も買ってしまいましたよ……(ラブレーの翻訳者である宮下志朗先生が文章を寄せていたからでもあるのですが)。





 農民の生活を描いたものや、聖書にのっている話を題材に取った寓意画も興味深く観れたのですが、私がとくに感銘を受けたのはやはり展示のしょっぱなに置かれていた風景画のシリーズで。これは街や農村の風景を、全景的に描いた作品群だったのですが、おそらくどこにも存在しない「その街のすべてが見渡せるパースペクティヴ」から描かれるそれは、まるでその画面のなかに世界のすべてが描かれるようであって、まさにミクロコスモス‐マクロコスモス――という大掛かりさ。白黒の版画の世界にあまりにも大きな世界が映し出されるところに、素直に驚愕してしまい、ひたすら「すげえ、すげえ」と感動しました。画面のなかでは、その世界に生きる人たちの生活が小さく描かれている、と同時に、その遠景には墓地や絞首台といった死の象徴が紛れ込んでいる。この生死がひとつの画面のなかに配置されているところが、ふわぁっと感動的で、ザ・世界(ワールド)!感が高まってくる。おそらくその画面は、本当に見える風景ではなく、絵の寓意性を高めるために歪められた世界に過ぎないのでしょう……が、その歪められた世界のなかに世界の姿が映し出されているとするならば、建前や嘘で塗り固められた《現実》よりも、歪められた《虚構》のほうがリアリティを感じてしまわなくもない。こうした点ははるかに20世紀のフィクションを、ブリューゲルが先取りした点であると思います。






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