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いま好きな力士

我が家に録画機能がついているテレビがやってきたのは最近のことだが、あ、録画機能ついてるなら相撲も録画で見れるじゃん、と気づいたのも先場所(九月場所)からなのだった。そういうわけで最近の楽しみと言えば、九州場所である(深夜にやっている『大相撲 幕内の全取組』を録画して観ています。取組だけのダイジェストだと、土俵入りの間とかが観れないのでこれはこれで味気ないのがあるけれども)。これまで土日の暇なときに観るぐらいのライトな相撲ファンに過ぎなかったが、今が一番相撲を観ている、と言って良い。15日間毎日やっていて、毎日面白いんだから辞められないのである。そういうわけで、今日はいまわたしが「好きだな〜」と思う力士について書いてみる。

舛ノ山(1990年生)
押し相撲を得意とする力士はそんなに好みではないが、顔がとても好きである。五月人形系というか、すごく丸々としている。毎回取り組みが終わった後、ぜいぜいと肩で息をしており「この人は、本当に相撲を続けていて大丈夫なのだろうか……」と心配になる(肺が人より小さいらしい。「20秒しか戦えない力士」という異名もある)。これから強くなりそうな期待感とかもそんなにないのだが、佇まいが素晴らしい。

宝富士(1986年生)
この人も顔が良い。生え際が若干後退しているのか、額が広いので、パッと見、ベテランかと思うのだが、そんなに自分と年齢が変わらないのでびっくりする。Wikipediaを読んだら『マツコ・デラックスに似ている』という記述があるが、それはわからなかった。個人的には、安西水丸が描く似顔絵みたいな顔だな、と思って、印象に残る。どんな相撲をとっているかはイマイチ印象がないのだが、顔ばかりが気になる。

松鳳山(1984年生)
とにかくこの人は肌が黒い。「え、いつのまに黒人の力士が!?」とびっくりするぐらい黒い。今場所、アフリカ大陸出身の力士では初の新入幕を果たした大砂嵐(エジプト出身)と同じかそれ以上に黒い。先場所よりも黒くなっている気がするので、日サロに行っているのでは、と思う(事実関係は不明)。そして顔もすっげえ怖そうな顔をしている。そして、わたしの弟にすげえ似ている。しかし、中身は普通の青年っぽいところが良い……。先場所、横綱・日馬富士から初の金星をあげて、感極まって泣いてしまうシーンでもらい泣きしてしまい、今場所も彼が勝つ度にまた泣いてしまうのでは、と思って、泣きそうになってしまう(福岡出身で地元だし)。

名前がカッコ良いですよね、まず(英語にしたら impulse ですよ)。右からガッツリぶつかっていく取り口のが印象的だが、そのせいか右肩にインプラントでも入っているのでは、というほどの大きなコブがある。これも頑張っている感があってすごく良い。あと、鼻がクルミを割った断面のような形をしていて印象が強い。先場所は上位陣とあたってあまりいい結果を残せなかったが、どこまで右肩のコブが大きくなるのか気になる。

以上、なんか相撲内容じゃなく、外見の話ばかりになってしまった。まあ、相撲内容以外の部分も含めて相撲が好きなのだよな。今場所は今年引退した元大関・雅山が毎回花道で見切れているところなども見所。あと一昨日から日馬富士が塩をまく直前のポーズが気になりまくっている(右手に塩をもち、右足の踵が浮いていて、左手はまわしにあてている。同じくこの塩のまき方が気になっている人がいたようで嬉しい。この人、平蜘蛛型の仕切りと呼ばれる仕切りも目立つし、なんか意味があるのかもしれない)。

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