その驚愕の初期短編は「もっと若い頃に読んでいた方がしっくり来ただろうなあ」という感じであったのだけれども、中期(80年代)の作品群にはすごく惹かれるものがあった。多くが作家自身の視点で語られていて、その語り口は「これ、小説っていうか、エッセイみたいだな」という印象を受ける。家族や親交のあった人物(たとえば三島や武満)がかなり直接に登場し、長男である大江光を中心に据えた日常を描くものもある。それがいきなりフィクションらしい落とし穴にズドンと落ちてしまうような瞬間があって、そうした落ちていく感覚がとても面白いと思った。どこからが実際にあったことなのか、どこからがフィクションなのかの境目は、わからない。気がつくと「あ、落ちちゃっているな!」と思って、うわっ、と驚いてしまうのである。それはマジックリアリズム的だと思ったし、「私小説2.0」的な手法のようにも思った。
そういえば、集英社の「ラテンアメリカの文学」のシリーズについてきた月報のなかで、だれかが「大江健三郎にガルシア=マルケスを激烈に薦められた」と書いていた気がする。とにかく、面白かったですよ。「おもしれぇじゃねえか、健三郎」……ってDMMのCMのビートたけしみたいになってしまった。
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