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細見和之 『フランクフルト学派: ホルクハイマー、アドルノから21世紀の「批判理論」へ』

細見和之による『フランクフルト学派』の概説書を読む。この人の「現代思想の冒険者たち」シリーズの『アドルノ: 非同一性の哲学』は学生時代にお世話になった本。アドルノの描かれ方がナイーヴすぎるきらいがあるが、アドルノとホルクハイマー、ベンヤミン、パウル・ツェランといった関係性をたどりながらアドルノの思想を紹介する好著だった。この『フランクフルト学派』もこの描き方に似ていて、フランクフルト学派以前から、フランクフルトに社会研究所ができたとき、第二次世界大戦期、戦後、さらにハーバーマスやそれ以降という時間軸のなかで、思想家が関心や思考をどんな風に受け継いでいったのかを簡潔に書いている。

著者の研究対象のメインどころがアドルノ、そしてベンヤミンだからその部分の分量が多いし、そもそもベンヤミンはフランクフルト学派なのか?(それはエーリッヒ・フロムなどにも言える)という疑問も浮かぶだろう。が、ベンヤミンがアドルノに与えた影響を考えると、本書で扱われてはいけない理由はなく、むしろ適切な感じもする。『アドルノ: 非同一性の哲学』も絶版だし、いま、アドルノにもっともコンパクトに接近できる本だろう。あと、裕福な同化ユダヤ人という彼らの生活的な背景や、思想家たちが生きた時代についても丁寧に説明しているのも良かった。

個人的に「はぁ〜、勉強になるなぁ」と思ったのは、ホルクハイマーとアドルノの次の世代であるハーバーマスについての記述で。「アドルノやホルクハイマーの仕事を、もう一度アカデミックな研究領域に引きもどす、という大きな作業を行った」と書いてある。そういえば、わたしはアドルノとハーバーマスを、アドルノはアドルノ、ハーバーマスはハーバーマスという感じで読んできたから、そうか、そういう風に繋がってたのかあ、と思った。アドルノが戦後ドイツでラジオやテレビに頻繁にでてた、という記述も「へぇ〜」と思いました。まぁ「いま、なんでフランクフルト学派?」とも思うんだが……(本書は2014年に出てる)。

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