中原昌也『中原昌也作業日誌2004-2007』 - 「石版!」
こちらのエントリのコメント欄が長くなってきたので新たなエントリに書き起こす。まず、id:noflyingcircusさんへの返信から。noflyingcircusさんは「Geheimagentさんの場合は、そこでクラシックは独立し至高のものとなっているのか?全体を宝玉混合を楽しんでいるのか?にとって私の筆の滑らせ方が変わってくるのですが(どのアニメは認めているか?によっても複雑になってくるし)」という問いかけをされている。
これに対して(ここでの『独立』とは、おそらく『経済システムからの独立』を意味しているように思われる)。私の立場を単純に説明させていただくならば、おそらく前者に近いところにいる。クラシックというジャンルに限らないし、音楽にだけではなく小説でも、アニメでも、マンガでも、あらゆる「作品の鑑賞」において、私は「経済システム云々」といった作品の外部にあるものを考慮しない(つもり)でいる。
そうであるなら、なぜ「芸術システムの経済システムのサブシステム化」を問題としなくてはならないのか。しかし、これを説明する前に、この見慣れない言葉――「芸術システムの経済システムのサブシステム化」――が何を指し示すのかを説明しておいたほうが良いかもしれない。
(前エントリのコメント欄でも書いているが)この現象の分かりやすい例をあげると「売れないものは切り捨て」または「売れるものしか市場に出さない」ということになる。芸術システムと経済システムの関係性が、後者にとってあまりに優位なものとなり、前者が後者のサブシステムとして機能するようになった場合、これらは自明な結果として現れる。経済システムの目的――「より多くの利益をあげること」――にそぐわないものは、システム内で行われるおこなわれない。
本来であれば「経済システムの芸術システムのサブシステム化」という真逆の現象もおこらなくてはいけない(いまいち『芸術システムの目的が何なのか』については言い切ることができないけれども)。しかし、経済システムがあまりに強すぎるため、その逆転はおこらない。付記するならば、これは芸術システムにおいて感じられる傾向ではなく、社会におけるほかのシステムにおいても感じられる(例えば、報道システム。もはやどこにもジャーナリズムは存在しない)。
「売れるものしか好きじゃない」というならば、これでもまったく問題がないのだが、残念ながら私はそのようなタイプの人間ではない(誤解がないように言っておくと、私は売れるもの『も』好きである)。なので、「売れるものしか」という状況は、単純に息苦しいし、不便なのである。数だけはどこにでもあるようになったHMVやタワーレコード。これらの大型ショップにも売れるものしか置いていない(そして、それは『どこに行っても同じものしか売っていない』という状況を作り出す)。欲しいものが実店舗で手に入らない(ネットでしか買えない)。
創作する側についても、この息苦しさは問題になっているように思う――作りたくても、売れないから(利益をあげられないから)、作れない、という風に。これは「作っていないから、受け手も受け取ることはできない」という忌まわしい悪循環を生んでいる。
「『シュトックハウゼンを聴け!』だとか『国書刊行会の本を読め!』だとか啓蒙を行わなくてはならない」という話ではないし「『メジャーのレコード会社に火をつけろ!』だとか『大手出版社を爆破せよ!』だとか運動をしなきゃダメだ」という話でもない。単純に「マイナーなもの、売れないものが好きな人は、状況をもうちょっと意識しなくてはいけないのでは?」という話である。
もはや、ぼんやりと《コンタクテ》を聴ける状況ではないのだ(出版界はまだマシかも。ピンチョン全集だとか、日本中で何人が喜ぶんだ?っていう企画もバンバンでてるし)。
はじめまして、いつも楽しく拝見しています。
返信削除売れないものを在庫として抱えておくコストが下がると、システムに乗るものの数は増えるのでしょうが、それがネットなのでしょうね。
>売れないから(利益をあげられないから)、作れない
ところで、参入のコストが下がることで、潜在的なつくり手が皆創作をはじめたとき、すべての人間が全員芸術家になったとき、それだけで利益をあげたり、ご飯食べたりすることは難しそうです。
そうなると、もう一度『芸術システムの目的』について考えたくなりますね。
>ioxinariさん
返信削除はじめまして。コメントありがとうございます。
「ところで」以下の部分は、私がまったく取りこぼしていた状況の分析だと思います。たしかに現状では「売れなくても、作ること」、これが可能になっている。ioxinariさんがおっしゃるとおり、誰もが芸術家になれる。しかし、それで誰もが食べられる、というわけではない。この場合、食べられる人=プロの芸術家、というシンプルな線引きが可能になります。
しかし、売れるもののみがマスの流通に乗ることができる、という傾向は、新しいものが生まれてくる可能性(偶発性)を小さくするばかりか、新しいものの受け手の理解可能性(ある種のリテラシー?)をも小さくするかもしれません。新しいものを創造することが、どんどん報われない世の中になることはとても悲しいことだと感じます。
全然話は変わってきてしまいますが、そのような世知辛い/窮屈な社会においては、再び批評なるものが重要となるような気もするのですが……批評的なものも経済システムに取り込まれているのを考えるとちょっと微妙な気もしてくる。最近、旧来の資本に拠らない批評雑誌がいくつか出てきますが、これはそういったところへの反抗とも受け取れるように思います。
批評による整理に頼らずとも、未整理なわけのわからないものを自分で探っていく、という楽しみもあるわけですけれど。
>noflyingcircusさん
返信削除何度もコメントありがとうございます。いきなりですが、私は「議論」をしているつもりはございません。ましてやこれは「論争」でもありません。noflyingcircusさんのコメントに応答しているだけです。ここでnoflyingcircusさんが「議論をおこないたい」というのであれば、もうすこし、自分本位にならない言葉でコメントをしていただきたく思います。あなたの言葉は伝わらないわけではありませんが、私には詩人の言葉のように感じられるのです。これは我がままなお願いかもしれませんが……。
「芸術は明確な目的をもたない行為である」と言ったのはカントだったでしょうか(よく覚えていないのですが)。この言葉は「芸術は芸術のために芸術をする」という同語反復的なものに置き換えられるように思われます――もうすこし噛み砕くと「無目的的な芸術行為の目的は、芸術そのものである」ということです。ちなみに、このような自己目的的行為を社会学では再帰的行為と呼んでいます。
ここから一気に社会システム論的な説明の仕方をしていきます。
上記のように芸術システムは、再帰的な目的を持っているため、経済システムの目的を借用する必要がありません。芸術システムと経済システムの係わり合いは、芸術システムの側からすればあくまで、「芸術するために芸術する」ために(サブシステムとして)利用されるだけです――具体的に言えば、ベートーヴェンが自分の創作行為を続けるためにパトロンの組合を結成したのは、そのような利用例だと言えましょう。
ここまで長々と書いてしまいましたが、かなりどうでも良いことを書いている気がしてきたので、話をちょっとnoflyingcircusさんのコメントに沿うような方向に戻します。
「本来であれば『経済システムの芸術システムのサブシステム化』という真逆の現象もおこらなくてはいけない」という私の言葉ですが、実現可能性云々でなく(そもそも始まりからして経済に取り込まれているものばっかりなのに、どうして芸術が経済の上に立てるのでしょうか?)、ある特定のシステムばかりが権力を増大させている、というアンバランスな状況は気持ちが悪いな、という話です。
それから、私は「芸術家が経済や環境や政治的主張をおもねりながら制作をすることがなんだかしょうがないと押し黙るのではなく、義務になっていることにこそアゲインストをやはり起こすべき」とも思いません。逆に「商売なら仕方がないね」と思います。これは私はまったく創造することをしていないからだと思いますけれど、もしnoflyingcircusさんがアゲインストするのであれば「頑張ってください」ぐらいしか言えません。やりたいようにやるのが一番という風にも思いますし。
以上です。
まずジェントルな議論の立ち上げ方を感謝します。
返信削除ここでの私の一時的な立ち位置を明示しておきたいと思います。ので引用。
>>
特定の楽器編成による一つの曲が演奏されたときに「これがなにを表現しているのか」と考えるタイプの人がいるが、それ自体が表現なのだ。それによってなにかでは、なく、それ自体がすでに表現なのだ。〈保坂和志『小説の自由』〉
<<
私は芸術が目的を持つようなことは、芸術の本意ではない。から【経済システム】のもつ目的を持たないと何もできない。という構造に【芸術】は取り込まれてしまうのではないか?と推理した。つまり【芸術システム】という言葉は経済抜きに存在しないように考える。
であるから本来であれば「経済システムの芸術システムのサブシステム化」という真逆の現象もおこらなくてはいけない」というのは、現実に実現させるのは不可能なはずだ。(理念としてもアジテーションとしても賛同する。が現実的ではない)
【経済】や【社会】が【芸術】を守り育てる器のようなそして父のような存在であって欲しいと私は願うとき、HMVやタワーレコードやヴィレッジ・ヴァンガードの物量の豊富さが素晴らしいものと比例しているとわくわくしていたあの時を思い出す。だが気がつけば、彼らは売れるものしか取り扱っていなかったわけだ。その時の落胆が私にピュリストとしての道を歩かせ始める。
芸術家が経済や環境や政治的主張をおもねりながら制作をすることがなんだかしょうがないと押し黙るのではなく、義務になっていることにこそアゲインストをやはり起こすべきだと思う。
>>
それ自体が表現なのだ。それによってなにかでは、なく、それ自体がすでに表現なのだ。
<<
そのことをもっと大事にして欲しいというのが私のここでの主張なわけだ。
(闘争はおまけ、楽しくなったら自分のこめかみを撃ち抜くべき)
返信削除ごめんなさい、使い方が分からずに誤ってエントリのとなりに星をつきすぎてしまいました。どうやって消すんですかアレは?(ヤバいこれでは完全なアラシではないかと誤解されかねないなぁ)
う~む自分本位にならない言葉ですかぁ。言われて読んでみるとそんな気もするし、それなりに「客観的」なつもりだったんだけども、「てめぇは茶々入れたいだけじゃん」とまでは、言われてないだけでも救いかもしれないです。
ではでは「議論」でも「論争」でもない「応答」に対する「応答」を書いてみます。
私は「芸術と経済が一番バランスのよかった時代がいつであるか」みたいな根拠になる事実に関しては、リサーチをしていないからはっきりとは言えないが、そんな時代も理念も、もしかしたら実は未だかつて生まれたことは無いのではないだろうか?という気がします。(これは好意的な見解です)
中原昌也氏を私が評価する時のことを考えてみますと、氏が「結果的」には金にも「環境問題」に関心があるふりもせずに、「なにか」を創造しようとしているように思われる点があると思われます。
これは私が「移入しすぎ」とも考えられますし、自己弁護の格好の材料として氏を利用していると思われかねないので、封印しておきたかった思考なのです。
「芸術家が経済や環境や政治的主張をおもねりながら制作をすることがなんだかしょうがないと押し黙るのではなく、義務になっていることにこそアゲインストをやはり起こすべき」
というのが私なりの行き過ぎでも書いておくべき主張なわけで、
「才能もない奴がなにを偉そうに」
とかいわれたら返す言葉もその気もなくなってしまう。弱さですが「個性があれば良い」という言説の本当のところは他人への無関心があることを暴き出すには十分に福次的な効果もあるように思います。そこを明示化した後に初めて、作品が「個性」とか「金になるか」とか「環境問題」とかのベクトルから(すこしは)解放されるのではないだろうか?
とここまでにしておきます。
剽窃や詩人まがいの多分に興奮のあまりに書き連ねました冗長さと乱文、ご寛恕いただけると幸いです。丁寧な応答ありがとうございました。