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カール・マルクス『資本論』(二)




資本論 2 (2) (岩波文庫 白 125-2)
マルクス
岩波書店
売り上げランキング: 8718



 完全にぼんやりと読み飛ばしているだけになりつつある資本論マラソンだが、第2巻を読み終える。この巻の内容を超暴力的に要約すると「資本家がどうやって剰余価値を生み出してるかっつーと、労働者を過酷な状況でむちゃくちゃにこき使ってタダ働きとかをさせてるからであーる!」みたいな説明が前半にあり、その後は「どんだけ労働者がしんどい状況にいるか」とか「技術の革新によって、労働者をめぐる環境はどうなるか」みたいな分析が延々と続く……みたいな感じだと思う。


 ここで紹介され、分析の対象になっている19世紀半ばのイギリスにおける工場労働者の資料は、なかなか凄みがある内容で大変読み応えがあった。いやー、全然知らなかったけど、ホントにひどいんだねー。12時間労働なんか当たり前で、少年労働者なんか6歳から働き始めたりする(もちろん学校になんかいけない)。劣悪な環境のおかげで、発育が不良になり、著しく平均寿命が下がった地区なんかもあるそう。20世紀生まれで良かったー、などと馬鹿みたいに考えちゃうよね。


 しかし、これを読んでて常々感じてしまうのは資本主義の、近代のおぞましさである。「規則緩めて、給料あげてもアホな労働者は酒飲むのに金を使っちゃったりして意味無いじゃん?だから、俺っちはその無駄な労力を吸い上げて有効利用してあげてんのよ」みたいな感じの資本家は、この鬼畜が!(穴を掘って土下座しろ!)って感じだけども、このおぞましい合理性の精神は、我々の現代にも生きているわけである。


 「マニュアル化された作業」あるいは「専門性を必要としない仕事」は、主体の入れ替え可能性(今・ここにいるのは<私>でなくても良い)を生み、実存的不安(<私>じゃなくても良いなら、<私>が生きる意味ってなんなの?)を主体に植えつけている……と現代社会を分析している社会学者がいるけれど、これは何も現代に限った話ではなく、19世紀の産業革命直後から入れ替え可能性は見出せる。入れ替え可能性の大きさでいえば、きっと19世紀の方がひどくて、労働者はほとんど使い捨てのパーツのように扱われている。現代において、これが不安を呼び起こしているのは、不安を呼び起こすような知恵を労働者が持ち始めたからじゃねーの?なんても思う。





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