クリント・イーストウッド監督作品『チェンジリング』

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オリジナル・サウンドトラック Changeling
クリント・イーストウッド
ジェネオン エンタテインメント (2009-02-04)
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 クリント・イーストウッドの新作。日本公開前からものすごく楽しみにしていたのだが、期待通り素晴らしい出来栄えで、若干盛り込みすぎな部分があるものの(ヒューマン・ドラマとサスペンスがごった煮になっていたりする。しかもサスペンス部分は超ハードで本格的に恐ろしい)、中盤で号泣してしまったし、やはりエンディングはイーストウッドらしくモヤモヤっと心にわだかまりが残る感じとなっていて大満足だった。そして、今回も音楽の使い方が異常。イーストウッドが書く映画作品については過去にエントリをあげているけれども、イーストウッドはあえてこういう風に音をつけているのかどうか、ものすごく気になってしまう。悲しいときには単調の音楽をつける……というような常套句的演出がほとんどない。常にあのなんとも言えないアブストラクトな音楽が流れているので、それはそれで不穏さを煽ってくる。警察がアンジェリーナ・ジョリーを貶める部分では、本当に不快な気持ちになってくるのだが、この不穏な演出がこの不快さを増長しているのではないか、と思えるほどだ。しかし、生理的な部分へと訴えかける力の強さもはや、この監督の作風なのだろうなぁ、と思うところもあり、むしろこのモヤモヤ感や不快感に拍手を送りたくなってしまう。





 この作品から私が読み取ったものは主に2つ。1つは「システム」についてである。序盤から中盤にかけての物語では、腐敗したロサンゼルス市警によって、アンジェリーナ・ジョリーが、人権であるとか尊厳であるとかを蹂躙されまくる過程が描かれる。そこでの警察権力の姿は、村上春樹がスピーチで批判をおこなったシステムの姿と多く重なる部分があるのだが、この様相をもう少し社会学的な表現に置き換えると「システムの暴走」という風に換言できるであろう。そもそも警察権力のシステムとは、人権を守り、法を守らせるためのシステムとして社会におかれたものであろう。警察とは、この目的のために時に暴力を行使することが許されている特権を持つシステムである。





 しかし、この映画内で描かれる警察システムの姿は、その本来の目的が忘却され、警察システムのために警察システムが作動する、というような言わば「自己目的化」が徹底されたものである。警察システムが振舞う論理の無茶苦茶さはあまりに強引過ぎ、笑いさえ引き起こすものであるのだが、この点は、いかにカフカが現実を如実に描いていたのか、を論証するかのようだ。中盤以降でこのシステムの暴走は、他のシステムによって抑制される。このとき警察システムの前に現れるのが、教会であったり、法であったりするところは、実に興味深い。まさに「事実は小説より奇なり」といったところである。警察システムの暴走を厳しく非難する弁護士の姿がものすごくカッコ良く撮られている。この部分はまさに警察システムが、法システムのサブシステムに過ぎないことを明示的にしたものであるように思えた。そう言った意味で、勧善懲悪的な物語がこの映画のなかには含まれていると言えよう。しかし、教会が警察に対抗するものとなっている状況は、あまりにも今私が生きている社会とは異なっていることもあってとても面白く思った。時折、日本の警察には不快な思いをさせられることがあるのだが、この映画を観て態度が改まったりしたら良いのになぁ、などと淡い期待を覚えたりする。





 2つめは「魂の救済」についてである。映画のなかには、3人の救済されるために行動を起こす人物が登場する。彼らはそれぞれタイプがまったく異なっていて、ある人は救済のために罪を告白し、ある人は逆に罪を告白しない。そして最後の1人は救済のために、希望を持ちながら実ることのないであろう努力を続ける。しかし、救済を求めるひたむきさの部分については、いずれも同じなのだ。私はこのひたむきなものの表れに、ものすごく感動してしまうところがあった。このようにひたむきで、純粋な感情の表出は物語のなかでしか味わえないだろう、という感じがする。実際に、救われたかどうかは置いておいて、私はそういった行動を支持したい、と思う。





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