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諸星大二郎『夢の木の下で』




夢の木の下で (Mag comics)
諸星 大二郎
マガジンハウス
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 仕事が終わって帰宅してから同人誌*1用の小説を書いていたのだが、その途中で「私はもしかしたらものすごく諸星大二郎に影響を受けているんじゃなかろうか……」とハッとして気がついて、本棚から探し出して再読したのがこの『夢の木の下で』という短編集である。諸星といえば『暗黒神話』や『孔子暗黒伝』といった長編が有名だが、私はこの短編集が一番好きで標題作「夢の木の下で」とこれに繋がる「遠い国から」という連作、また「壁男」などを収録したこの本は学生時代から何度も読み返した記憶がある。





 今回再読して改めて気がついたのだが、諸星大二郎という漫画家の書くストーリーには「一般の生活世界と趣がまったく異なる異世界との交流」というモチーフが頻出している。異世界を知った一般世界の人間には意識の変化がおこり、これまで自明のようであった自分の「当たり前の生活」に不安を抱き始め(存在論的不安である)、異世界へと旅立とうとしたり、自殺したりする。しかし、ここで興味深いのは、交流した先の異世界にも変化が生じる点である。





 例えば「壁男」(人家の壁の中に自意識をもった壁男という妖怪のような存在がおり、人間の生活を観察している、という話)では、壁男と交流をもった女性が、壁男の世界へと入り込んでしまう。ここで壁女となった女性は異邦人的存在であるのだが、この異邦人が徹底的に無視されるわけではなく、むしろ、問題を引き起こす異質な他者として扱われる点が特に面白い。そこでは壁女を迫害する者もいれば、逆に保護しよう(そして愛そう)とする者も現れる。この2つの反応の違いによって分けられた壁男世界では、次第に権力闘争が生じる。この争いは壁女迫害派(=保守)と壁女擁護派(=革新)という風に色分けできるだろう。そして(ネタバレになってしまうが)この闘争によって壁男世界は崩壊してしまうという悲劇的結末へと帰着する。





 思うにこの「壁男」という作品は、単なる空想話、あるいはホラーとして片付けられるものではなく、社会的なものをリアルに映し出したものである。これが映し出しているように思われるのは、主に2つ。1つは「未知なるものに触れることが必ずしも良い結果を生むわけではない」という書いてしまうと当たり前のように思えてしまう事柄である。もう1点は「変化は不可逆である」ということ(これも当たり前のことかもしれないが……)。これは変化の訪れから、世界への崩壊へと向う悲劇によって間接的に描かれているように思う。






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