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ミシェル・ゴンドリー監督作品『エターナル・サンシャイン』




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 BSで観る。ミシェル・ゴンドリーの作品を観たのはこれで2本目だが、特殊技術に頼り切らない(技術を見せ物的に、作品内容として使用しない)映像の作り方にハッとさせられるときが多々あって好感が持てる。スタイリッシュ。この監督は追憶だとか過去をテーマに据えているのだろうか。これらのテーマには、しみったれ感がつきまといがちだが、これがなんとも個人的なツボをついてくる。この作品を観て「この監督、好きかも……」と思った。





 “私”にできることは、現在という観測地点から過去を時折確認することに過ぎず、未来とは本質的に不確定なものであり、過去の経験から推測するものでしかない。しかし、過去を操作することもできない。それは過去になった時点で過去として確定され、更新することが不可能である。





 だが事実的な過去と記憶の間にはある程度の遊びがある。強い思い込みや錯誤によって、“私”は過去を事実とは違ったように認識することが可能である。よって、“私”が未来の推測のために参照するのは過去ではなく、厳密に言えば記憶なのだ。





 こう考えると、記憶を操作することとは未来を操作することに密接に関連づけられる。この映画に登場する記憶の消去サービスとは、単に過去の認識を書き換えることではなく、未来を望ましい方向へと向かわせる手段として描かれる。





 興味深いのは、未来を変えるために記憶の消去をしたにも関わらず、消去した過去を反復してしまう人物たちである。この人物たちに更新できない、人間の(というか個人の)本性が表れる。これはあたかも運命的であり、予定調和的である。この変えがたい本性のようなものによって、キルスティン・ダンストがものすごくしんどい思いをするところが良かった(良くないケド……)。





 それから、もう一点。記憶消去サービスのスタッフが、サービスを受けた女性に一目惚れをし、消去した彼女の記憶を参照しながら彼女に取り入ろうとするシークエンス。これも救われない感じがして良かった。彼の自分の存在を半ば殺すようにして、消去された記憶の男になりすます。愛されるのは、自分ではなく、記憶の男である。これはほとんど悲劇のような救いがたさだ。自分が愛される実感を得るには、彼は愛されている役割を脱ぎ捨てなければならない。この葛藤が彼のアプローチ方法には決定されている。また、結局このアプローチ方法も失敗に終わるところに、恋愛における恋愛対象の交換不可能性が表れでているように思った。





 あとケイト・ウィンスレットの肉感的な肢体が良かった……。





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