黒澤明監督作品『七人の侍』

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 祖父の四十九日があるので帰省しているところに、BSで黒澤明の『七人の侍』が放送されていたので家族と一緒に観た。祖父が好きだった映画である。この作品を観たのはこれでたぶん3度目だが、初めて観たのは祖父がレンタルで借りて来たときだったはずだ。


 


 序盤の侍集めのシーンで薪割りをする侍が登場したとき、母が「あんな綺麗な薪なら誰だって割れる」と言った。曰わく、“本当の”薪というのは節くれだち、形も不均等だから難しいのだそうだ。まったくどうでも良い一言だが、この一言で映画には色んな見方があるものだ、と関心してしまった……と同時に、これは隣で一緒に映画を観ている“家族”が他者として表れる強烈な瞬間でもある。同じ映画を観ていても、昭和中期(ちょうど『七人の侍』が公開された頃)に東北の貧乏農家に生まれた母と、それから約30年後に生まれた私とでは、まるで見えているものが違うのだ。





 こう改めて書いてしまうと、まぁ、当たり前と言えば当たり前の話である。しかし、母と私という共有しえない体験を常にし続ける他者同士が、家族という社会的な関係性を築いている、というこの事実、これは驚異的なことなんじゃないだろうか、とも思う。この素朴な事実に驚異を感じられれば、少し他者に対して寛容さを持つことができそうだ。





 それはさておき『七人の侍』について、今回思ったことを書いておく。





 村の20軒の家を守るためには村外れにある3軒を犠牲にしなくてはならない、戦とはそういうものだ、と劇中で志村喬は厳しく言い放つ。戦とはそういうものだ。この一言によって全体主義が承認される。このギリギリの状況では全体の勝利を、全体の力を総動員することによって(マイノリティの犠牲を払うことによって)でしか得られない。『七人の侍』における状況とは、太平洋戦争下の(国家総動員法施行下の)日本の状況とうまく布置できよう。





 この例外状態の終わりが侍と農民の娘との恋愛関係の終焉によって明示されるのが良い。しかし、例外状態において払われた犠牲についてはほとんど問題にされていないのではないだろうか。ラストに映し出される戦死者の埋葬跡の遠景には、おそらく追悼のまなざしがある。だが、そのまなざしはあまりにも弱々しく、勝利の喜びのなかで霧散してしまう。だからこの勝利が全体主義によってもたらせたものであることを観客は忘れてしまうのだ。この名画が孕む大きな問題とはここにあるだろう。





 映画が終わったとき、父が「こんな映画はもう撮れないよ」と感嘆したように言った。父の言葉はたぶん「黒澤明のような才能を持つ監督はもういないから……云々」という意味だろう。しかし、私はまったく別な意味で「このような映画はもう撮れない」と考える。犠牲を忘却するかのように、勝利を素朴に喜ぶ農民たちがラストに登場するけれど、この素朴さがもはや許されていないのだ。アウシュビッツの後に詩を書くことは野蛮である(アドルノ)。





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