スキップしてメイン コンテンツに移動

莫言『転生夢現』(上)




転生夢現〈上〉
転生夢現〈上〉
posted with amazlet at 09.02.21
莫 言
中央公論新社
売り上げランキング: 149103



 id:ayakomiyamotoさんの猛烈なレコメンドで興味を持って『転生夢現』を読み始めた。まだ下巻に手をつけてはいないのだが、半分まででだいぶ書いておきたいことが溜まってきたので記しておく。言うまでもなく、ものすごく面白い作品であるので、そうしたくなったのである。





 この莫言という作家について「ガルシア=マルケスに影響を受けたマジックリアリズムが……云々」と言われているそうだけれど、この作品を読む限りは、ラテンアメリカの作家というよりかは、むしろラブレーあたりに影響を受けているのではないか、と感じた。中華人民共和国成立直後の土地改革によって殺害された地主がさまざまな動物に生まれ変わり、人間であった頃に治めていた土地のその後を人間ではないものの目線から語る。ロバや牛や豚の目線から諧謔的に語られる世界は、中華人民共和国の政治的変遷とリンクして変化していく。





 語り口は柔らかでユーモラスであるのだが、かつての共産主義に対しての批判的なまなざしは強く、直接的であるように思われる。この直接性はガルシア=マルケスからはあまり感じられない。この本を読んでいて思い起こすのは『ガルガンチュアとパンタグリュエル』である。この『転生夢現』をマジックリアリズムと呼ぶのであれば、この形容はラブレーにも適用できるのであろう。ルネサンス時代にマジックリアリズムは存在したのであり、このような手法を今更取り立てるのは、言わば「語るための契機」に過ぎない。手法は内容ではない、ということを改めて感じたりもする。





 小説は中華人民共和国の歴史そのものと言っても良いのかもしれない。私はほとんど現代史を知らないのだが、この本に書かれている中華人民共和国の様相には強く興味を喚起された。海を挟んですぐ隣の国について、これまで何も知らなかった点を恥ずかしく思いつつも、その隣国がとんでもない歴史を持つことを知ったときの驚異の大きさが恥ずかしさを勝る。というか、生まれ変わった地主の息子たちのその後の成長や愛憎劇よりも、物語上に登場する中華人民共和国の政治のほうが面白く感じられるほどで、現実の中華人民共和国の政治それ自体が笑えないギャグの水域に達しているように思った。





 上巻は文化大革命の末期で終わっているのだが、文革前の大躍進政策もすごい(これらの歴史的事実についてはwikipediaで調べれば、詳細があるので改めてここでは書かない)。「ファシズムもコミュニズムも、理想が現実の遥かに先をゆき、その結果暴力が蔓延する点では同じ」というようなことをアーレントかアドルノの本で読んだのを思い出してしまう。腕を組み、首をひねりながら考えてしまうのは「どうしてそのように無茶な政策を推進してしまったのか」という点に尽きる。真っ当な頭を持つ人間であれば、金属工学の専門家がいない農村に溶鉱炉を作ることなど無謀であることなど、すぐに理解できるはずだ。にも関わらず、それが行われる。あらかじめ失敗が運命付けられたようなものが、どうして現実に行われたのか。





 考えられるのは2点。1点目は為政者(つまりここでは毛沢東)「成功するだろう」と本当に思っていた、ということ。2点目は「無理だ」と思いつつも、体裁的な問題により引っ込めることができなくなった、ということ。どちらにせよ、強い理想が現実を見えなくしているところがある。これは日本が過去に起こした戦争についても、同じことが言えるかもしれない。多くの日本人が「負けると分っている(はずの)戦争をなぜおこなってしまったのか」と反省するのを目にするが、これには少々引っかかるところがある。歴史を事後的に評価する地点では、どんなことでも言えてしまうのだから。本当に問うべきなのは「負けるだろう、現実的ではないという判断がなぜできなかったのか」ということではないだろうか。





 地主の生まれ変わりの動物の目線から語られる村の人物の多くも、その理想へとコミットしていく。しかし、彼らの多くが本当に些細なことで失脚したり、挫折をしたりするところにも「純粋な理想」の恐ろしさのようなものが表れているように思う。例えば、胸に輝いていた毛沢東のバッジをうっかり便所に落としてしまうことによって、それまで村の指導者だった人物が一気にキツい労働を強いられる立場に落ちてしまう。ここからは「もしかしたら、その人物が失脚しなければ、わずかでも理想が現実に近づいていたかもしれないのに、純粋な理想から外れる些細な出来事によって、自らの首を絞めるような状況」を読み取れる。





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います *1 。  「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。  「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。  しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。  「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は...