蓮實重彦『映像の詩学』

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映像の詩学 (ちくま学芸文庫)
蓮實 重彦
筑摩書房
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 このところ映画関連のエントリが続いているのは、この本を読んでいたことと無関係ではないだろう。批評というジャンルに位置した文章をアドルノが書いたものしか読まない(読んでいない)、という具合に偏っている私だが、蓮實重彦のこの映画論集はなかなか稀有な読書体験を与えてくれた。それはこの本に書かれた文章のほぼすべてが、私にとって無意味である、という意味においてである。この本のなかで触れられる映画のなかで、観たことがあるものはジョン・フォードとハワード・ホークスとルイス・ブニュエルのいくつかに限り、それ以外の作品について語られたとしても、いったい何を語っているのか皆目見当がつかない有様。例えばベルトリッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』にしても「踊り続けることがファシズムへの抵抗なのである……云々」と有難そうな文句が並んでいても、へぇ……そうなんだ……(観てないからわかんないケド)と思うしかない。ただ、そのように無意味な読書がつまらない読書とイコールで繋がるか、と言えば、そうではなく(逆に語られた内容が理解できても、つまらない読書もあり得る)、批評とはなんのためにあるのか、だとか批評論――というものがあるのだとしたら――について考えるには大変有意義な本であった。





 以下に読みながら考えていたことをメモ程度に記しておく。





 ひとつはこの本が書かれた1970年代という状況と、現在とでは批評が書かれる状況について意識せざるを得ない、ということ。今調べたところによれば、家庭用ビデオ再生機が普及しはじめるのは70年代後半を過ぎた頃のようである(VHSが開発されたのが76年のこと)。おそらくは蓮實重彦も、映画の詳細を確認するためにビデオを再生することなど不可能な状況で文章を書いているのだと思う。よって批評はおのずと記憶を頼りにしてかかれざるを得ない。この本に収録されたハワード・ホークス論にはこんな記述がある。



それが途方もなく美しいのは、このライターのぶっきら棒な往復運動が、2人の登場人物によってまるでなかったように忘れさられてしまうからだ。あるいはライターではなくマッチ箱だったかもしれないが、というよりいまやマッチ箱であったという確信の方が遥かに強いのだが、とにかくこの喫煙具はヒッチコックにおけるがごとき濃密な説話機能を担ってはおらず、ひたすら無償の運動を生きるばかりだ。



 このように不確かな記述は、詳細を確認しようと思えばできてしまう時代において許されないものだろう(ソフトが流通していない新作を語る場合では違うのかもしれないが)。しかし、確認できないことによって、記憶頼りにしなくてはならないという状況は、記憶と言葉との遊戯性を批評に与えているようにも思う。批評の記述が、スクリーン上で起こった事実に厳格に沿わなくとも許されてしまう(もちろん大幅な逸脱は許されないのだろうが)。ここから正確な記述の意味についても問うことができるだろう。「喫煙具」はライターであっても、マッチ箱であっても良い。それについてツッコミを入れるということは、粋/無粋の問題になり、本質的な有効性を持たないのではないだろうか。





 もう一点はやはりアドルノ絡みのことである。アドルノと蓮實の態度にはかなり似通ったものがあると強く感じた。



作家の内面など覗き窺ったところでとりたてて刺激的な体験は期待されようはずもなく、たかが人間にすぎない連中がせい一杯人間に似ようとする退屈な儀式につきあわされてうんざりするのが関の山で、それぐらいなら、フィルムの表面に虫眼鏡でも向けて、人間のものだの動物だのを思わせる……(以下略)



 アドルノが徹底して楽譜を読むことによって(楽譜というテキストから)批評を生み出そうとし、楽譜の外部にある作曲家の人生や人格の心理を批評から排除しようとしたのと同様に、蓮實もまたスクリーン上にある映像の動きを注視することによって批評を生み出そうとする。アドルノと蓮實の批評の間で共有している部分とはこればかりでなく、この本に収録されたゴダール論の一部である「『万事快調』隠蔽と顕示」で触れられた、ほぼ映画批評論となっている一説にも、彼らの共有の痕跡がある。ちなみに私はゴダールの作品を1本も観ていないのだが、この部分はこの本で最も面白く読めた。蓮實が語る映画理論への反駁は、アドルノの体系学への批判とほぼ同意義であろう。



……「方法」がこちら側に、つまり行動し思考し語る主体の側に確立する場が残されていて、その確立の基盤となるのが、虚偽を真実から選別し、細部を総体へと統合するものが「理論」だなどと本気で信じられている。だが、「理論」をめぐるそうした思考の歩みそのものが、すでに排除と選択の身振りに律せられ、部分の全体への従属というイデオロギーに支配されていることを忘れ、その忘却を恰好の口実として「理論」を先験的に権威づけようとする言葉とは、煎じつめれば、世界から変革への可能性を奪おうとする抽象的反動性に犯された言葉にほかならぬのだ。






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