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読売日本交響楽団第481回定期演奏会@サントリーホール




指揮:下野竜也


男声合唱=東京混声合唱団


芥川也寸志(没後20年):エローラ交響曲


藤倉大:読売日響委嘱作品《アトム》【世界初演】


黛敏郎(生誕80年):《涅槃交響曲》



 マエストロ下野の読響定期を初めて聴きに行く。超絶良い演奏会。帰りに下野さんと偶然お会いして「素晴らしい演奏会でした!」と伝えると、アルコール混じりの笑顔で握手していただけた(柔らかい手……)のも感慨深いのだが、収穫が多い演奏会で「こういうのがオーケストラを生で聴く醍醐味だよな」と思った。ここで今日の演奏会をプログラム順に振り返ってみよう。





 まず前プロの芥川也寸志だが、これは私がこれまで抱いていた芥川のイメージが覆されるような演奏だった。私はこの作曲家のことを、変拍子の印象的なリフレインを多用し(いわばカンザスシティのリフ・ミュージックのような)、ハーモニックな感性には欠ける粗野な作曲家、とばかり思っていたのが、冒頭の弱音だけでそれらのいいかげんかイメージは吹き飛ばされてしまう。《エローラ交響曲》の弱音の使い方は実に繊細で、耳がキュッと舞台に向かうような気持ちがした(それは指揮者の解釈によるものも多いのだろうが)。もちろん、ダンサブルとさえ言える変拍子のリフレインも最高なのだが、この繊細な弱音音楽と、印象的なリフレインが組み合わされることによって初めて、芥川也寸志という作曲家が聴取可能なものとして成立するのではないか、と思う。どちらか一方を残せばやはりつまらない。実際のところ、芥川也寸志という作曲家はハーモニックな音楽を書くのは苦手だったのでは? と思うのだが、それを乗り越えるだけのリズム語法を身に付けていたのだろう。





 中プロ、藤倉大の世界初演作品も良かったと思う。まず第一に、この作品に日本的なもの、アジア的なものを感じなかった、という点だけで個人的には評価に値する。脱臼でも諧謔でもない彼の音楽は、おそらく(よく知らないが)西欧のモードに則るものであろう。前半から中盤にかけてのラッヘンマンばりの特殊奏法の嵐には少し面食らいながらも、後半のメシアンを想起させる和声は美しかった。作曲家のやりたいことは明確で、おそらくこれが理解できなかったのだとしたら、それは「音楽に集中出来ていなかったのだ」と言い返すことができるだろう。





 しかし、メインの《涅槃交響曲》は素晴らしかった。これほどまでに「来て良かった。生きてて良かった」と思える演奏はなかなかない。その思いはもちろん個人的な思い入れによって形成されたものではあるが、《涅槃交響曲》の「生」と「録音」の効果の違いも大きい。大規模なオーケストラが、ステージのほか2箇所に配置された効果は、録音ではまず味わえない。左右後方から聞こえてくる音(ステージから客席に向って右側が低音、左側が高音)におもわず「本当はこんな作品だったのか!」と思わずのけぞってしまった。終始感激。とくに終盤で、男声合唱がヴォカリーズによって雅楽的な旋律を歌い上げる部分で昇天しそうになった。名曲過ぎる。年末には第九、で構わないが、日本のオーケストラは毎年御盆に《涅槃交響曲》を演奏すべきだ。





 以下、《涅槃交響曲》を聴きながら考えたことをメモしておく。まず思い出したのは(たしか)川島素晴が「鐘の音をあんな風にオーケストラの音へ変換するのは不可能である」と言っていたこと(《涅槃交響曲》は、東大寺の鐘の音色をコンピュータで解析し、その分析結果をオーケストラに置換したもの、とされる)。これは不思議だったのだが、録音で聴くと鐘らしく聴こえた音が、今回生で聴いてみたらどう聴いても鐘には聴こえない。川島の発言が一種のゲシュタルト崩壊を呼び起こしたかどうかは分からない。しかし、これによって《涅槃交響曲》という作品の詳細を聴くことが出来た部分はある。





 よく聴けば、メシアンとよく似た部分がある。というか、黛敏郎はもしかしたら《トゥーランガリラ交響曲》を念頭に置きながら《涅槃交響曲》を書いたのではないか、と邪推してしまうほどよく似た部分があるのだ。とくにピアノの独奏部、これはメシアンが作品に用いた鳥の鳴き声に聴こえた(《鳥のカタログ》にこんな曲があったような……)。鐘の音を模したものと、鳥の鳴き声を模したもの。発想としてはよく似ている。これがもし偶然だったとするならば、鐘と鳥が器楽化すると似てしまう!という奇跡に驚くしかない。ただ、その可能性は限りなく、少ないような気がする。しかし、言うべきことはこれをパクりだ!と糾弾することではない。むしろ、1958年の時点で仏教というとても東洋的な題材とメシアンの語法をこれほどまでに洗練させた形で提示できた作曲家が存在していたことを評価すべきなのだ。



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 欲を言えば、男声合唱はもっと数がいても良かったのではないか、と思う。第2楽章に入って合唱がお経を唱えるところで思い出すのは、いつも上記のCDに収録されている「地獄の王、マハーカラへの声明」なのだが、これに比べると今回の合唱は地獄感(?)にやや欠けた(バスのソロは素晴らしかった!)。もっと地の底から響き渡るようなお経が聴きたかった。そのためにはあと2倍ぐらい人が必要であろうが……。



黛敏郎:涅槃交響曲
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