日渡早紀『ぼくの地球を守って』を読了。この漫画については小学生の夏休みにほとんど毎年BSアニメ劇場でアニメが放送されていた記憶があるが、毎年プールやセミ捕りで忙しいために、第1話しか見られないという事態が続き、結局10年以上「クソ生意気なガキに噛みかけのガムを食べさせられる漫画」以外の印象しかもっていなかった。その後、大澤真幸の本などでこの作品が巻き起こした「前世ブーム」を知ることとなり、今日になってようやく作品の全貌を知ることができたわけだが、正直、直前に萩尾望都を読んでいたこともあり「そこまで反響を呼ぶほどの作品なのだろうか……」と首をかしげる結果となってしまった。いや、明らかに比べる対象が悪いのだが(逆に言えば『萩尾望都ってすげぇんだな……』と大変勉強になった)、話としては割合凡庸な気もするし、何より物語が進むにつれて、徐々に辻褄があわなくなっていく部分に対して作者が「辻褄があわないけれど、どちらが正しいのかは読者にお任せします」という弁明を挿入しているところが変に気に障ってしまう。ほかにも『聖闘士星矢』や『哭きの竜』のパロディといった読み手と作り手の共犯関係が築かれるような部分がイチイチおたく的な感性の表れとして読めてしまう。こういった内輪ウケを求めるような表現は、作品の評価とはまったく別な部分で(というかまったく評価できないのだが)興味深く思う。1987年から連載が始まったこの作品には、ニューエージや新興宗教といったカルチャー以上に、こういった時代的なノリが反映されているのではないだろうか、と思わなくも無い。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

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