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プルタルコス『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』




エジプト神イシスとオシリスの伝説について (岩波文庫)
プルタルコス
岩波書店
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 プルタルコスは紀元1世紀中ごろに生まれて2世紀初頭ぐらいまで生きたギリシャの人(ローマ時代のギリシャ人、ということになる)。つい最近になって重版された『エジプト神イシスとオシリスの伝説について』は、この人が書いたエッセイ集『倫理論集(モラリア)』からの抜粋で、エジプトの神々についてまとめられた書物として現存しているもののなかでは、これが最古のものなのだそう。私のなかのエジプトの神様の知識といえば、サン・ラーであるとか、ジョジョ第3部であるとか(シルバー・チャリオッツ!!プラス、アヌビス神!!)、ものすごく断片的なものだったから、とても面白かった。そういえば、先日モーツァルトの『魔笛』を見たときもオシリスとイシスがセリフに出てきていたなあ(ザラストロの神殿では、オシリスとイシスが崇められている)。




 とはいえ、こうしたエジプト神話は前22世紀には成立していたものだそうで、プルタルコスがこうした神々のストーリーを書き記した頃には、現代の人がプルタルコスの本を読むぐらいの時間が経過しているのだから、彼がまとめた話がどこまで本来のエジプトの神話であるのかはかなり怪しい、とのこと。しかも、プルタルコスは(ときおりかなり強引に)エジプトの神々をギリシャの神々に読み替えており、いろいろあることないこと付け加えているようなのだ*1。だから、この本はエジプトの神話をプルタルコスが紹介している本としてではなく、プルタルコスによるエジプト神話解釈、という風に読むのが適切なように思えてくる。





 こうした視点からこの本を読んでいくと実にスリリングなのが、ペルシャ神話、エジプト神話、ギリシャ神話を比較しながら分析していく部分で(P.85から)、これはもう文化人類学者みたいな仕事ぶりだと思われた。ここでプルタルコスは、エウリピデスの言葉「善と悪とが別々にあるのではなく、両方が混ざり合ってちょうどいい加減になる」を借りてきて、彼が考える世界の秩序観を提示するのだが、さまざまな神話はこのような世界観を表現する共通のアナロジーであるように扱われる。このへんがとても面白かった。





 もちろん、紹介されているエジプト神話もなかなかに魅力的である。オシリス(アセト)とイシス(ウシル)とテュポン(セト)とネプテュスが全員異父兄妹で、そのなかで愛し合ったり殺しあったり、子どもを作ったりしているのが良いと思った。アヌビスなどは、オシリスがイシスと間違って、ネプテュスと交わってしまい産ませた子どもであるとか、いろいろとヤバい。




*1:このあたりの信憑性についての話は、訳注でうざったいぐらいにツッコミが入ります。凡例には「訳注はなるべく少なくした」とあるのだが、全然少なくないです。





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