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『Newton』10月号が面白かったよ!




Newton (ニュートン) 2010年 10月号 [雑誌]

ニュートンプレス (2010-08-26)



 気がついたら定期的にチェックしてたまに買っている雑誌が『ギター・マガジン』と『Newton』だけになっており、もはや自分が何者であるのか、と疑いたくなってくるのだが(ギタリストでも、理系でもない)、今月の『Newton』は面白かった。第一特集は「無からはじまった宇宙誕生の1秒間」というタイトルで宇宙関連モノ。この宇宙が無から生まれる、という仮説が理論的にまことしやかに語られるようになったのは1980年代にはいってからなんだって。こうした宇宙論の学説の変遷は、なかなか面白い。




 1900年ごろまで宇宙は昔からずっと宇宙で変化してない! というのが主流で、1929年にハッブルという人が「どうやら宇宙は膨らんでってるらしいぞ」と言い始め、第二次世界大戦が終わった後ぐらいにガモフという人が「なんか昔の宇宙は超高温で超高密度だったみたいだ」と唱え、1980年代になって佐藤勝彦*1とアラン・グースという人がそれぞれ独自に「宇宙は無から生じて、その後、一気に大きくなったんだ」とか言うようになったんだと。これを世代にあてはめると私の曾祖父が生まれた頃の人は「宇宙はずっと変わらん!」だったし、私の祖父が生まれたころの人は「宇宙は膨らんでるらしい!」だったし、私の父の代になると「ビッグバン宇宙っつーのがあったらしいよ」となって、ようやく私の世代になって「最初は無からはじまったんだってさ、ヤバくね?」という感じになる。4世代でこんなに宇宙論が変わるなんて、きっと人類史上稀に見る100年間だったにちがいない、20世紀ってヤツは。





 この特集で特別に「へえ~」と思ったのは2点ある。まず1番目に「ビッグバン」というのはどうやら宇宙の状態を示す言葉であって、現象のことではないらしい。だからビッグバンで宇宙ができた、というのは言い方としてはおかしいことになるみたい。あくまでビッグバンというのは「超高温・超高密度な宇宙」のこと。じゃあ、宇宙はどのようにして生まれたか、っていう話になるんだけれども、これは「計算不能」なんだって。これが2番目に驚いたこと。物理学者が計算に使える「理性の限界」的な時間は「プランク時間」(約10の-43乗秒)と呼ばれているらしいのだけれど、計算もできないしそもそも扱えないので、無の状態からプランク時間まではどうやっても考えることができない → わからん、って感じなのだそう(それを乗り越えるのが超ひも理論らしいぞ! すごいひもだ!)。無からプランク時間のあいだになんかがあったときには、有になっていて、そこからインフレーションがおこった、っつーのが1980年代に唱えられた「インフレーション理論」。たぶんこのインフレーションが、ビッグバンで宇宙ができた、というイメージ的に重なるのでしょう。おもしれ~。





 ほかの特集では「桜島はあと10年か20年かしたら大爆発するかも」とかゲリラ豪雨の仕組みとか、脳トレとかDHAの効果には科学的な裏づけは一切ないよ! とかの話が面白かった。面白すぎて、この前会社の人との飲み会で初めてあった女の子にその話ばかりしていたら、すごく不思議な顔をされてしまったよ。嫌がる素振りを見せなかったから、とっても良いコなんだと思った。




*1:このまえ高校生クイズに出てましたね





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