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マルティン・カルテネッカーによるラッヘンマンの弦楽四重奏曲の解説 #1




Lachenmann: Grido/Gran Torso
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 気が向いたのでヘルムート・ラッヘンマンの弦楽四重奏曲全集についてきたマルティン・カルテネッカー(Martin Kaltenecker。誰かは知らない)による楽曲解説を訳してみる。



 《グラン・トルソ》が書かれたのは、ラッヘンマンが「調性的作品のもつ機械的かつ効果的な状態にある音を基礎としながら、素材概念をそれ自体から自由にし、その構造的・形式的なヒエラルキーを引き出そうという試み」をおこなった作品を書いてから数年後だった。この試みは「楽器によるミュージック・コンクレート」という言葉を定義することでもあった。そこでは、電子的なノイズ・ミュージックによるアプローチをなしに、生楽器を使ってその楽器の構造や特性を考えることから生み出された演奏法が用いられる――たとえば、楽器を叩いたり、引っかいたり、押したり、といった具合に、だ。《グラン・トルソ》においては「弓のストロークがもはや音程と関係する音響的な経験としてではなく、むしろ音という製造物が生まれる瞬間の摩擦音になる」。しかし、この「弓によって圧力をかけることへの意識」は主題的な機能をも持っている。なぜならそこでは「圧力をかけること」が、かつての旋律のモチーフや中心的なリズムが演奏されたのと同じ役割を担っているからである。すなわち、それは類似や対比といった修辞法によって等位の関係とみなされるシステムを変革し、置き換えることを可能とする。だから、ラッヘンマンにとっては、ピッチカートとコル・レーニョは「同じ衝撃音という原理における変数」として扱われるのだ――そこでは「鳴り響くハーモニクス」が連結されることによって、それらは「互いに関係を結ぶ」のだが、同時に「はっきりと分けられていることを暗示したり」もする。





 しかし、この具体性を主題にするという試みは楽器の演奏法を極限まで広く拡張していかない限り、早々に限界に達してしまう。本質的に言えば、それは楽器との闘いによって可能となることがらであろう。そこでラッヘンマンはまったく新しい「解剖学」を創造したのだった。その解剖学的手法に従う演奏家は、が提案する右手左手をゴチャゴチャに使うような新しい演奏法を熟知していなければならなかった。演奏家たちは、演奏のあいだに弓の毛の張りを変えることはおろか、チューニングを変えたり、ボディやペグを使ったり、指板の非常に高いところを使ったりしながら、ノイズや音の高さを決定する新しい方法をまぜこぜにして使いまくる。しかしそれによって人工的なハーモニクスなどが生まれ「隠蔽され、仮想化されることにより素材を抜け出ることや、弦の音という支配的な固定観念をほとんどなくすること」が可能になるのだ。





 しかし、もっともらしく、そして刺激的な拡張の初演は、矛盾と障害をも引き起こしていた。それらについて、ラッヘンマンは具体的にこう述べている――「ポリフォニックな組織的思考を拡張することは、触覚の存在を脅かす。おそらくそれは五度でチューニングされた楽器という存在を悩ませ、単なる『機器』へと変貌させるだろう。しかし、それはモノの見方というものを変えてしまうものでもある。『トレモロってなんだっけ? 上げ弓、下げ弓ってなんだっけ?』と」。オーケストラの世界ではベルリオーズやマーラーの時代から使用されてきた創造的なノイズと楽音を解き放ち、タブーを破ることによって、弦楽四重奏の世界を変えることが可能である、と作曲家がすぐさま考えたわけではなかっただろう。これらは破壊された努力の領域となった。彼がこの作品を「氷山」や「トルソ」や「廃墟」へとなぞらえているのは、こうした理由がある。




 さて、聴衆はこうしたノイズによる主題的な働きを深く理解することは可能なのだろうか? あるいは、ラッヘンマンの詩的で、機知に富んだ彼の「楽器によるミュージック・コンクレート」の記述は、我々の分析が直感よりもより深い理解を示すであろうという理想を描くだけだろうか?(もっとこの弦楽四重奏曲への集中力を高めさえすれば、ラッヘンマンのいうことが体験できるのだろうか?)いずれにせよ、聴衆は新しい分類を可能にさせるこの断続的におとずれる韻文のような印象をうけることによって、この理想を本の少しでも受け取るだろう。たとえば、鋭く押し出される音と、普通のトレモロのあいだには、突然で切迫した性格という共通基盤がある。他方では、壊れたノイズを乗り越えて、聴衆がラッヘンマンの形式についていくことによって、意識を拡張することも容易に理解できるようになるだろう。新しい世界へと導くように聞こえる冒頭の断片につづいて、《グラン・トルソ》は攻撃的に押しつぶされた激しい音の連続を長く呈示する。それは最後の長いパッセージへと沈み込んでいく前の、押し殺されてざわめくような音のはじまりである。そこではチェロの胴の部分を擦り、ヴィオラが抑制されたフラウタート奏法をおこない、2本のヴァイオリンは呼吸のようなノイズを出すように指示されている。この4つのパートによる「ほとんどなにもないような」インヴェンションは、陳腐な詩のようにフェイドアウトをするのではない。むしろ急激な変化をもって終わり、第2楽章のようなウェイトを占めている。そこで耳が再度調整されるのだ。この(『適切な空虚さ』とでも言うべき)急激な瞬間は、まるで眠りから急に覚めたかのように、運動の増加によって導かれる。時間と素材によるグラデーションの変化のなかで、サルタート*1の身振りは、断片のような押しつぶされた音をたて、第1部を思い起こさせつつ、モールス信号のようなバルトーク・ピッチカートの挿入があって締められる――作曲家はこれを矛盾をもって「ドタンバタンという音による歌うようなメロディー」と表現している。



 つづく……。



D



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*1:弓の根元の弾力のない部分を用いた、少し遅めで重たいスタッカート。VIOLIN





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