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荒木飛呂彦 『スティール・ボール・ラン』(23)






もはや物語は論理ではないフィールドへと突き進んでいる感が満載だが『スティール・ボール・ラン』最新刊をとても面白く読んだ。最終巻の一歩手前でも回収されていない伏線がいくつもあり「アイツは結局なんだったのか!?」というキャラもいるのだが、そんなのは関係ないのである。大統領は自らが宣言した曇りのない正義という嘘の前に敗北し、そしてジャイロの死はその敗北によって確定されてしまう。勝利と同時に失うジョニィ。しかし、これが最終決戦か……と思いきやまだ続きがあるのだから更なる驚き……。そして前触れのない父親との和解。どうして和解できるのか、その説明は省略されているが父親を超克することではなく、父親が許しを乞うことで、さまざまなものを失い続けてきたジョニィに再び力が宿っていくところが素晴らしい。ここで読者はコミックス第一巻の言葉に戻ることができるだろう。



この『物語』はぼくが歩き出す物語だ



才能に恵まれた人間が、一度全てを失い、そこから這い上がってくる。選ばれた人間が活躍する話は、もはやありふれてしまっている。それに対して荒木飛呂彦は「選ばれていないかもしれない人物」を主人公に据えてみせる。たしかに主人公には才能があるのだが、常に「もしかしたら間違った才能なのではないか?」という疑念が主人公を苛む。それは自分が選ばれた人間であるという認識を信じることができない碇シンジの心性とも対比できよう。だが、シンジが「やってみたらできてしまう」のに対して、ジョニィは地を這い続ける。まるで『新・巨人の星』の星飛雄馬のようだが、こうした泥臭さというか地を這っている感じが『スティール・ボール・ラン』の異質さなのだと思う。新世界のスポコン漫画を描いた荒木飛呂彦の技量がここに表現されているのだ。





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