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スティーヴ・D・レヴィット & スティーヴン・J・ダブナー 『ヤバい経済学』




ヤバい経済学 [増補改訂版]
スティーヴン・D・レヴィット/スティーヴン・J・ダブナー
東洋経済新報社
売り上げランキング: 1958



経済学というと無味乾燥なお金のやり取りを理論化した“冷たい”学問のようなイメージを抱きがちで、実際自分の弟がある大学の経済学部に進学したときも「つまんなくないの?」と質問したこともあるくらいだったのだが、イアン・エアーズの『その数学が戦略を決める』やクルーグマンの翻訳を読んだあたりから「なるほど、経済学ってこんな風にも使えるのか」と興味が持てるようになった。なんだ、経済学って全然無味乾燥じゃないし、全然冷たくないし、めちゃくちゃに血が通った学問じゃない、という感じ。すでにとても有名な本だけれども『ヤバい経済学』も、そういう風に経済学のイメージを書き換えてくれるタイプの本だと思う。





著者のひとり、スティーヴ・D・レヴィットは、日常のさまざまなことがらを計量経済学の手法を使って分析している研究者だ。彼が取り扱うことがらはどれもトリビアルなものばかりで、本書で紹介されているものから紹介したら「銃とプール、こどもにとって危険なのはどっち?」とか「相撲の力士は八百長をしてる?」とか、ほとんど趣味的な世界である。なんというか仕事が趣味がタモリ的に逆転した、趣味が仕事になっている研究者なのであろうと思う。「教師、犯罪者、不動産業者は嘘をつくことがある。政治家やCIAのアナリストも。しかし、数字は嘘をつかない」(P.21)。本書のポリシーを表しているのがこの文章だろう。





アメリカで犯罪率の低下がおこったのはどうして? 常識的な考え方をすれば、おまわりさんを増やして、取締りを強化したから、という予測ができる。けれども、数字(データ)を使って分析をすればもっと強い要因が導き出せる。「俺がおまわりさんを増やして、取締りを強化したから犯罪率は低下したのだ!」と偉そうにしている人たちがいたかもしれない。けれど、そうした人たちの施策は効果があったかどうか微妙なものだったこともわかる。これらの分析結果は、常識的な考え方が社会でいかに通用しているか(有効な言葉としてまかりとおっているか)、そして、それが本当の仕組みとは全然違うことを示している。社会の裏側(本当の仕組み)で起きていることが、社会の表側では実際とは違った常識で理解されていることは興味深い。





「学会で『これはむしろ社会学だ』という意見が出るたび、社会学者の人たちが引きつった顔で首を横に振るのが見える」とレヴィットは言ったそうだけれど、たしかにこの本は社会学的なモノとしても読める。社会学のポリシーのひとつに「常識を疑うためのツールとしての学問」というのがあるもんね。リスクと恐怖の関係、人間の選択をインセンティヴによって分析いるところなども面白く、KKKの歴史やギャング社会についても知れて楽しい本でした。





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