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読売日本交響楽団第504回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール




指揮:ペトル・ヴロンスキー


ピアノ:清水和音


モーツァルト/ピアノ協奏曲 第24番 ハ短調 K.491


《マーラー・イヤー・プログラム》


マーラー/交響曲 第5番 嬰ハ短調



本来であればズデニェク・マーツァルという指揮者が出場するはずだったが、震災の影響により出演キャンセル。ピンチヒッターとなったペトル・ヴロンスキーも同じチェコ出身の指揮者で来れる/来れないの違いって、本人の判断なのだな~、ということがうかがい知れる。ヴロンスキーの読響との共演は87年以来ということだ。外見はいわゆる爆演系が予想される感じなのだが、特別に奇をてらうような指示はなく、ドイツ系の下から音を積み上げるような音作りを手堅くまとめる……まあ、読響向けの指揮者だったと思う。





てっきり会場に着くまでマーラーのみの一曲プログラムかと思いきや、モーツァルトのコンチェルトがあった。ピアノ協奏曲第24番は、内田光子の演奏でよく聴いていたので親しみがある。こうした脳内の参照点に対して、清水和音がどういう演奏をしたのかと言えば、これも前評判通り、という感じ。「キレイな演奏をするが、何を弾いても一緒に聴こえる」というのが私が聞いていたこの演奏家への評価で、それを確認するような演奏だった。テクニックも申し分なく、ひとつひとつの音がキレイに響いていたように思えるが、それ以外「ここがすごい」と耳を惹きつける要素が特段ない。良い意味でも、悪い意味でも優等生的というか、日本の高級車みたいなピアニストなんだろうか。正直言ってあってもなくても良いモーツァルトだったと思うが、曲が良いので不満はない。定期会員になっていると、そういう風に一音足りとも聞き逃すまい! という意気込みはなくなってしまうが、流して聞くことができるから気が楽である。





後半のマーラーも手堅く、特別に何かがすごい演奏というわけでは無かった。しかし、そういう普通な演奏でも「ああ、マーラーって良いよねえ……」と楽しくなってしまうのが、マーラーの良いところで改めてこの作曲家のスペクタクル性というか、オーケストラから飛び出てくる音色の多彩さに気づくことができた。この点がダメな指揮者では途端に聴く気がしなくなるブルックナーとの違いなのだろう。曲の全体に対して聴き手の集中力を研ぎさせることなく聴かせる演奏でもなかったし、正直、途中結構ダレたけれども満足できてしまう。オーケストラは、クラリネットのトップが見たことない若そうな人でリード・ミスが多かった(他のパートにも見たことない若い人がたくさんいた)が、めげずに頑張ってください、と思った。





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