M・ナイト・シャマラン監督作品 『サイン』

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なんとなく映画の気分になって旧作をいろいろと借りる祭。シャマランの作品を劇場でリアルタイムで見始めたのは『ハプニング』からで、そこからガッツリハマってしまったのだけれども(その後が『エアベンダー』でグハッという感じなのだが)『サイン』をようやく見て、一層「シャマランの世界ってこういう感じだよなあ」という具体的なイメージがつかめた気がします。ちゃんと怖いし、ちゃんと笑えるし、泣けたし、そして本人も出てるし……で最高です。で、この作品で明確だったのは神学的な対立で。主人公のメル・ギブソンは元牧師、という設定なのでキリスト教のモチーフが含まれているぞ、ということは冒頭から臭わす作りなのですが、彼のセリフにあるとおり「神によって人間は見守られているか」それとも「人間はひとりで生きていくか」という問いかけは、世界を動かしているのは神なのか(主知主義)、それとも意思によってなのか(主意主義)という対立そのままです。この主知主義と主意主義の対立自体、思想史的に言えばプラトン対アリストテレスぐらいまで遡ることができますので、なにもキリスト教に限った話ではないわけですが、いろいろあって神を捨ててしまった男であるメル・ギブソンは、主意主義者として振る舞う。しかし、さまざまな恐怖を乗り越える過程で、さまざまな幸運(偶然)と出会い、自らの意思を超越して自分の人生に影響をあたえるものの存在を信じざるを得なくなる。最終的にメル・ギブソンは信仰を再びもてるようになるのですが、それは単に神への感謝、というだけではなく、神に対する畏敬も含まれている。こうした意思や理解を超えて存在するものに対する感謝と畏敬は、作中の恐怖の対象(これもまた自らの意思や理解を超えたものであります)と対称的と言えるかもしれません。これが『ハプニング』の場合ですと、自らの意思や理解を超えた恐怖の謎が最後まで解き明かされないままとなり、理解を超えた何かによって何かが引き起こされている、ということがそのまま主知主義へと接続されていくように思います。(以上の訂正線部について、思想史プロパーの方からツッコミが入りましたので、この状態にしておきます。なお『主知主義と主意主義の争点は、神の意志に先立って、秩序があるのか、ないのか、というところ。秩序が先にあると考えてしまうと、神がそれに従うことになるから駄目だ、と十三世紀末から、主意主義が優位になった』とのこと)





繰り返しになりますけれど、怖くて、笑えて、泣ける、とかなり忙しい映画です。メル・ギブソンが終盤ものすごい勢いでご飯を食べ、その後、全員抱き合って泣く、というシーンはツボ。このシーンも最後の晩餐的なモチーフが重ねられている気がするのですが、そこでみんながそれぞれ好きなものを食べようというときに選ぶのが、特別なものではなく至極日常的なメニューである、というのも良かった。





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