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ジャン=リュック・ゴダール監督作品 『アルファヴィル』




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なんとなく映画の気分になって旧作をいろいろと借りる祭その5。またもやゴダールで今度こそ面白くないんじゃないか、と思いきや、またもや普通に面白かったので良かった。コンピューターによってすべてが管理され非論理的なものが排除された未来都市、アルファヴィルへと送り込まれたエージェントが洗脳された美女を助けたり、街へと人間性を回復させたり、と活躍する! みたいなあらすじのSFでした。今だったら偏差値高めなSF好きの高校生が書きそうな話ですが『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』の元ネタみたいでしたし、まったく緊迫感のないカーチェイスや、IBMのテープ装置がついたコンピューターやインパクト式プリンターなど、まったりとした見所がたくさんあって良かったです。萌え、という言葉が一般的に流通して久しいですけれども、ここにきて萌えとはこういうのを慈しむ感情ではないか、と思いました。菊地成孔が各所で指摘している、ゴダール作品における音楽のあり方もこの作品では嫌というほど味わえる(途中でプレーヤーが壊れたかと思った)。ベルクソンの術語が登場するのは微妙に物語に関係しているから良いとして、アインシュタインの有名な関係式E=mc²が何度も挿入されるのはよくわからん! いきなりエリュアールを引用されてもよくわからん! と随所にハッタリっぽいサムシングが含まれていて、その辺もちょっと中2感でちゃったりしてるところも良いです。チャンドラー読んでたり、アメリカのポップ文化をネタにしてたりとかもそうなんだけれども、この辺は《時代の気分》だったりするんでしょうか。否応無しにピンチョンを思い出してしまうのですが『アルファヴィル』が1965年、ピンチョンの『競売ナンバー49の叫び』が1966年ですからねえ。





この時代の未来やテクノロジーに対する想像力についてもうかがえるのも興味深いです。「機械 VS 人間」といったところでは『2001年宇宙の旅』ですけれども、改めて「あれが1968年の映画なのかあ……」と驚かされたりもしました。





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