スキップしてメイン コンテンツに移動

一日でジョン・カサヴェテスの映画を4本観た

  • オープニング・ナイト(1977)
  • ラヴ・ストリームス(1984)
  • こわれゆく女(1974)
  • チャイニーズ・ブッキーを殺した男(1976)
以上を観ました(@吉祥寺バウスシアター)。一本が2時間以上あるのでこの日10時間近く劇場の椅子に座っていたことになる。シネフィルな学生ならまだしも、シネフィルな学生ですらなかった私には、ちょっとタフな映画体験でした。3本目の途中からお尻が痛くなりました。でも、映画はどれも素晴らしくて、お世辞でも何でもなく、一瞬もつまらない瞬間がなかったです。連続して観ることで気づくこともあったし、一日素晴らしい映画の世界にどっぷりと浸れる、というのは大変贅沢なことだと思います。ジョン・カサヴェテスはとてもカッコ良い。

オープニング・ナイト

オープニング・ナイト HDリマスター版 [DVD]
Happinet(SB)(D) (2009-11-20)
売り上げランキング: 100361

ジーナ・ローランズが老いを感じ始めた女優が、自分に与えられた「老い始めた女性」の役をどうこなすのか。若さを失っていることを認めたくない気持ちと、プロフェッショナルな女優として役を演じることへの意識との葛藤が、なかばスポ根ドラマのように展開されているのが面白かったです。特に後半は「舞台の幕は果たして無事に開くのか!?」ととてもハラハラさせられましたし、冒頭の交通事故のシーンにえげつなく心を掴まれてしまいました。事故によって若さが目の前で(象徴的に)奪われてしまう光景は、主人公の女優にくっきりと傷をつけてしまう。女優の傷つけられた内面は、舞台上で放たれるセリフとリンクし、それが女優の気持ちなのか、それとも役のセリフなのか、はっきりと判別がつかない。「脚本にそう書いてあるから、読んでいるだけです」という見せかけがあるからこそ、強く本当の気持ちがセリフのなかに表現されてしまうようにも思われて、グッときました。ジーナ・ローランズが泥酔している演技も、真に迫っていて良かったです(あ、年に一度ぐらいあんな感じになるな! とか思う)。

ラヴ・ストリームス
ジーナ・ローランズが夫と娘しか情熱を注ぐものがないのに、その対象との関係がうまくいかず、メンタルに異常をきたす中年女性を、ジョン・カサヴェテスはセックス依存症的で女漁りを止められない作家の役をそれぞれ演じています。過剰な愛ゆえに、愛されることを失ってしまう女性と、愛を持ちなれていないゆえに、愛されることから逃げ出してしまう男性の対比が良かったです。どちらも決定的な瞬間で上手くいかず、余計に傷をこじらせてしまうところが悲愴的にも見えるのですが、最終的にはどちらの主人公にもなにか新しい道のはじまりがあって映画が終わります。その新しく進んでいく道の先には、希望や幸福があるのかどうかは分からない。でも、うまくいかなかったことや傷ついたものを元通りやり直すことは不可能だし、不可能であるということを割り切ったうえで生きていくしかない。これはカサヴェテスの映画全般に通じていることなのかもしれませんが、そうしたなかで、おかしみ、みたいな要素が含まれていることで、生の不可逆性の重さが中和され、物語の重さのバランスをとっているように思われました。カサヴェテス演じる作家の小切手の切り方や、ジーナ・ローランズのおばさんパワーの発揮が躁病的に見せられるのも面白かった。こちらは未DVD化。

こわれゆく女

こわれゆく女 HDリマスター版 [DVD]
Happinet(SB)(D) (2009-11-20)
売り上げランキング: 14000

4本のなかではこれが一番好きかも。ジーナ・ローランズがノイローゼ気味の主婦(この日観た3本すべてでジーナ・ローランズは精神がダメになる役を演じている!)を、ピーター・フォークが伝統的な男性家長感全快の工事現場監督を演じています。これも家庭の崩壊とその後……がストーリーになっていて「覆水盆に返らず」感が強い映画でした。ジーナ・ローランズの精神不調は、ピーター・フォークの主権者っぷりに左右されているように思われ、この夫じゃノイローゼにもなるわい、と思わせられるのですが、ピーター・フォークはその不可逆性に気づいていない、あるいは認めたくない、と思っている、ゆえに「なんとかして元に戻したい」という気持ちの強さがでて、それがしんどいのだけれども、おかしみにつながっているところが良かったです。病院に半年入院して家に戻って来た妻の様子が「以前と同じ」ではない、ピーター・フォークはみんながそれを気にしていることが気に食わない。なんだか場の空気がとてもギクシャクしている。そこで彼は叫んでしまう。「もっと普通の会話をしろ!」(なんだよ、普通の会話、って)。そういうのとか。メンタルがダメになっている人にやっちゃいけないことを、ピーター・フォークがバンバンやっているところは気になると言えば気になるんだけれども。

母親が不在のなかで父親が子どもたちと関係を持とうと、一緒に海をいくところもじんわりと沁みました。その帰り道、トラックの荷台で子どもたちとビールを飲むシーン、ここ良かったなあ。『ラヴ・ストリームス』でも、カサヴェテスが過去に捨てた自分の子どもにビールを飲ませるシーンがありましたけれど、どちらの映画でも子どもが酔っぱらってしまう、というお決まりのような流れがあって、ただ、そこにはアルコールという「大人のモノ」を子どもが摂取するということで、大人と子どものあいだに秘密めいたサムシングが共有される雰囲気を感じます。あと、ジーナ・ローランズの主婦感はかなり良くて、年はとってるけど足が細くて可愛い。

チャイニーズ・ブッキーを殺した男


カサヴェテス作品のなかでは異色のノワールと呼ばれている作品、ですが、暴力的な描写は控えめで、やはり生のおかしみを感じてしまう妙な「振り切れてなさ」が良かったです。主人公のストリップ・バー経営者が、借金を返しきったぞ! というお祝い気分でカジノに行って、多額の借金を背負ってしまう、という流れも「ウッ、せつない」と思えて良いんですが、借金を帳消しにする代わりに引き受けるはめになった「鉄砲玉」の仕事の途中で、店のことが気になって公衆電話から「おい、今店はどうなってる?」と電話をかけてスタッフを叱る、ところがまたジワッと面白い。途中で寄ったダイナーで店員に「実は女房に先立たれててね……」と身の上話をされちゃったりして「こっちはこれから死ぬかもしれないんだよ!」感全開になるところとか。


コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...