スキップしてメイン コンテンツに移動

蜷川実花 / ヘルタースケルター

ヘルタースケルター・オリジナル・サウンド・トラック
V.A.
avex trax (2012-07-11)
売り上げランキング: 13909
沢尻エリカのスキャンダラスな話題はテレビ的にはもうオリンピックでかき消されている、という感じでしょうか? 観ているあいだの2時間半は、途中で幾度も挿入される「なんか映像美らしきモノを追求しているのでしょうか、これは」というシーンが苦痛とも言える間延びした時間感覚を提供しており「長い! タルい!」と叫びたいぐらいでしたが、少し時間が経つと、それほど悪い映画ではなく、酒飲み話を提供してくれる映画としてすごく優秀な問題作だったのでは、と思いました。上野耕路によるスコアはショスタコーヴィチの交響曲第8番やヴァイオリン協奏曲第1番、ラヴェルのピアノ協奏曲の第2楽章をモチーフにした曲(というかほとんどパクっているもの)が印象的でしたけれども、劇中では2曲、そうしたニセモノではないクラシックが使用されていて(戸川純『蛹化の女』を含めれば3曲)、ニセモノとニセモノではないモノの対比が気になってしまい、そこで使用されている曲(ベートーヴェンの第九! そして、ヨハン・シュトラウス2世によるドナウ!)について考えを巡らしていたら「え、もしかしてアレはキューブリックだったの!?」とか、そういう妄想を掻きたてられる。

原作は90年代の東京でしたが、映画は一応現代に時代が置き換えられている。この置換は少しちぐはぐなように思えました。消費する主体の象徴として、冒頭から女子高生がフィーチャーされたとき、映し出されるのは白いルーズソックス、そして終盤には浜崎あゆみが流れる。私は蜷川実花がどういう人なのかよく知らないのですが、この現代の渋谷との乖離は「おばさんが描いた現代風俗なのでは」と率直に感じたのですね。これは「諸星大二郎が割と最近の作品で描いている若者」に感ずるズレ(とそのおかしみ)にも似ている。もしかしたら、それは現実に存在しない、軽薄で汚れた架空の渋谷、の表現だったのかもしれませんが、悪い意味での希薄な現実感しか感じません。ただ、最もリアリティがないのは、沢尻エリカの肉感的な太ももで「トップモデル」という設定、同点優勝で寺島しのぶが車を運転するシーンでのハンドルの動き、でした。特に後者は「この映像にOKを出した人は、普段どのように現実を見ているのだろうか」と不安に駆られるモノで、嘘や虚構はホンモノっぽくなければ、成立しないのでは、と考えてしまいます。

原作のテーマを殺さないために、90年代に存在しなかったものが映画のなかで足され、現代に存在するものが映画から排除されているのは致し方ありません。しかし、映画のなかに「K-Pop」がなかったことに気づいた瞬間、もはや原作のテーマが決定的に古くなっている、と気づくのです。人体にメスを入れることは身近になり、そうでなくても人体に何かを接着して、肉体を改変することができる。また、仮想的に肉体を改変することも一般的に愉しまれてしまっている(デカ目プリクラがその象徴と言って良いでしょう)。原作では、そうした改変は、欲望が過剰に投射されたグロテスクなものとして描かれているように思うのですが、今やテクノロジーの進化によって、改変がポップなものとなりつつある。グロテスクであることを愉しんでしまえるテクノロジーが現在存在し、それらは我々の道徳を書き換えてしまうのです。

驚いたのは、全身整形をした主人公が、マイケル・ジャクソンについて言及するシーンです。ここは抗議を出しておくべきでしょう。身体をイジっている、という点では、主人公とマイケルは一致していますが、ふたりの行動原理はまったく異なっているのですから。大衆の集団的無意識のスクリーンとして自らの身体を消費的に提供し続けることで生き延びようとする主人公りりこは当初、とても他律的に生活させられているのですが、終盤では、そうした他律性を自律的に上書きしてしまう。「最高のショーを見せてあげる」というキャッチコピーは、行動理念が上書きされたりりこ(2.0)によるものです。そこにはある種のプロフェッショナルとしての決意が感じられる。一方、マイケル・ジャクソンはどうだったでしょうか。誰がマイケルの鼻が尖っていれば良いと思ったのか、誰がマイケルの肌が白くなれば良いと思ったのかを考えれば、両者の違いがすぐに明確になります。誰もそのような変化を彼に求めていなかった、にも関わらず、彼は様々な素晴らしいモノ、得がたいモノを提供し続けていました。ここには、使命感の強い職業人と天才的な芸術家の違いがあると言って良いでしょう。


コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

リヒテル――間違いだらけの天才

 スヴャトスラフ・リヒテルは不思議なピアニストだ。初めて彼のピアノを友達の家で聴いたとき、スタインウェイの頑丈なピアノですらもブッ壊してしまうんじゃないかと心配になるぐらい強烈なタッチとメトロノームの数字を間違えてしまったような速いテンポで曲を弾ききってしまう演奏に「荒野を時速150キロメートルで疾走するブルドーザーみたいだな」と率直な感想を持った。そういう暴力的とさえ言える面があるかと思えば、深呼吸するみたいに音と音の間をたっぷりとり、深く瞑想的な世界を作りあげるときもある。そのときのリヒテルの演奏には、ピンと張り詰めた緊張感があり、なんとなくスピーカーの前で正座したくなるような感覚におそわれる。  「荒々しさと静謐さがパラノイアックに共存している」とでも言うんだろうか。彼が弾くブラームスの《インテルメッツォ》も「間奏曲」というには速すぎるテンポで弾いているけれど、雑さが一切ない不思議な演奏。テンポは速いのに緊張感があるせいかとても長く感じられ、時間感覚をねじまげられてしまったみたいに思えてくる。かなり「個性的」な演奏。でも「ああ、こんな風に演奏しても良いのか……」と説得されてしまう。リヒテルの強烈な個性の前に、他のピアニストの印象なんて吹き飛んでしまいそうになる。  気がついたら好きなピアニストの一番にリヒテルあげるようになってしまっていた。個性的な人に惹かれてしまう。こういうのは健康的な趣味だと思うけど、自分でピアノを弾いている人の前で「リヒテル好きなんだよね」というと「あーあ、なるほどね」と妙に納得されるような、変な顔をされることがあるので注意。 スクリャービン&プロコフィエフ posted with amazlet on 06.09.13 リヒテル(スビャトスラフ) スクリャービン プロコフィエフ ユニバーサルクラシック (1994/05/25) 売り上げランキング: 5,192 Amazon.co.jp で詳細を見る  リヒテルという人は、ピアニストとしてだけ語るには勿体無いぐらいおかしな逸話にまみれている。ピアノ演奏もさることながら、人間としても「分裂的」っていうか、ほとんど病気みたいな人なのだ(それが天才の証なのかもしれないけれど)。「ピアノを弾くとき以外はロブスターの模型をかたときも手放さない」だとか「飛行機が嫌いすぎて、ロシア全...