ニクラス・ルーマン 「真理とイデオロギー: 議論の再開のための提案」

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ニクラス・ルーマンの1962年の論文「真理とイデオロギー: 議論の再開のための提案」を読みました(翻訳はいつものように三谷武司さんの私訳版)。

イデオロギー概念の時代は終わった、という意見に対し、ここでのルーマンはイデオロギーを等価機能主義のアイデアを使いつつ、行動に方向性を与えるパースペクティヴとして読み替えることで、むしろよりイデオロギーを活発に議論すべき道具と考えているようです。この読み替えにあたっては、イデオロギー的な考え方が西洋形而上学の伝統の延長にあることが確認されています。この部分が小難しく、こういった小難しい論文を書いていたルーマンが当時のドイツでどんな風に読まれていたのか、っていうか、ルーマンはどういった読者を想定して書いていたのか、とか気になるところなんですけれど、面白い。

近代以前の西洋哲学において、存在とは目的をもったものであり、その目的が真理である、と認められていた。その目的に根拠など必要ない、と考えられていたのは、その目的が超越的な存在(わかりやすく言えば神とか)に与えられたものであるから、その真理の正しさが保証されているわけです。これが近代にいたって、目的の正しさが自明なものではなくなる。「咲き誇る花の美しさは、その花が美しいということをもはや保証せず、なぜ美しく感じるのかの説明を必要とすることになり、最終的には電子の働きに還元されることになる」。マルクス、ヴェーバー、デュルケーム、フロイト……といった人たちの方法論とは、そうした状況下で、真理の探究をおこなうために提出されたものだ、とルーマンは言います。

しかし、マルクスらの提出した真理の探究は、ある体験が「別様に体験することも可能である」ことも明らかにしてしまう。たとえば社会的な文脈や生活様式がことなれば、ある行為が引き起こす結果も変わってくる。そうであるならば、真理とはどういったものなのか、証明できる真理などどこにもないのでは、という疑問が浮かんでしまう。ゆえに彼らの方法論は、破壊的に見えるのだ、とルーマンは言います。その一方で、彼は、こうした破壊的な説明方法が真理(目的)を機能的に捉える契機ともなっている、とも言う。たったひとつの目的と、その目的を達成するための行為があると想定しても無駄なので、ある目的に対して、さまざまな達成方法がある。機能的な捉え方とは、そのさまざまな方法の可能性の検討であり、そこでの目的は、行動を決定するための指針としての機能する。ルーマンが言うイデオロギーもまた、その行動決定のための指針であり、行動の優先順位を決める価値システムとして機能する概念です。

もちろん、そうしたイデオロギーは到達すべきただひとつの真理を与える絶対的なものではなく、イデオロギー自体が別の可能性をもち、批判・検討・変更が可能なものです。これによって、よりより社会設計が可能になるかもしれないんだから、むしろ、イデオロギーの時代は終わってない、むしろもっと検討しろ、というのが論文の結論部で語られる。

……なんか読んでいるあいだはわかった気になっても、こうして読書メモ的なものをまとめようとすると、全然読めてないんじゃないか、という気分になってくるな……。

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