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仏文はエロいという幻想を打ち破るために(番外編)




失われた時を求めて〈5〉第三篇 ゲルマントの方〈1〉
マルセル・プルースト Marcel Proust 鈴木道彦
集英社


 「フランス文学は本当にエロいのか」を検証するためにフランスの古典文学を読んでいましたが、これは古典じゃないので「番外編」としました。「プルーストはエロい(表現とか様々なものが)」というのは自分の中で落ち着いてしまっているし。以前は文庫の出版のペースで「はやく次が出ないか」と待ち遠しかったのだけれど、今や8巻まで出ていて置いてきぼりを食らっています。まだ5巻だよ……6巻買ってあるよ……。追いつけんのかな…っていうか『フーコー・コレクション』も3巻買って2ヶ月以上放置してあるぞ……とセリーヌばりに中黒多用で愚痴も飛ばしたくなります。最近良い文庫化多すぎ*1


 ここ最近ハードな本ばっかり読んでいて(学術書に重ね、全く興味がないシステム・エンジニアのテキストも並行)、電車の中で読むプルーストが一番解放感ある至福の読書時間でした。開いたページ一杯に広がった活字に、体を溶け込ませていく錯覚を楽しむ感じでしょうか。時折、ハッとするような言葉があったりしてね。「ものを食べるときの彼女は、手先がいかにも不器用なので、舞台で芝居をするときもさぞかしぎこちないことだろうと思われた。彼女が器用さをとりもどすのは愛の行為のときだけで、男の肉体が好きでたまらない女たちに特有の驚異的な勘をはたらかせて、自分たちの肉体とまるで違っているのに、どうやったら男の肉体に最高の快楽を与えられるかをひと目で見抜いてしまうのである」――どうだ!この包み隠されまくったエロ表現!!(別にこんなのが延々続くわけではない)


 前の巻でも「きっと素敵な人に違いない!」と思っていたオッサンが、話してみたら高慢ちきなタダのオッサンで……としきりに幻滅する「私(語り手)」だがこの巻でも幻滅しっぱなし。オペラ座で見かけたゲルマント公爵夫人に対して「うっわー、なんて綺麗な人なんだろう……」と恋焦がれ、彼女の甥っ子である友人に「頼む!あの人に引き合わせてくれるようなんとか手を売ってくれないか」と根回しするんだけど、会ってみたらなんか冷たくあしらわれちゃって……。涙出ちゃうよ、そんなん。


 それ以上にこの巻でグッときちゃうのは語り手がゲルマント公爵夫人と一緒にいたサロンに、以前語り手を魅了した女性がやってくるところ。ここで語り手は過去の感情を少し思い出すのだけれど、今は少しもピンと来ない。何も感じない。「あのときはあんなに憧れていたのに、今は本当にあの人なのかすらも信じられない……」。そんな過去への憧憬がなんともいえず良い。そういうことってあるよね……。




*1:でも、本当に今!必要なものは少ない。河出書房新社は『美の理論』を筑摩か平凡社に権利売って、文庫化させやがれ!





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