クラオタの聴取態度こそ、ユートピア的だ

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http://d.hatena.ne.jp/encyclopector/20061030


 id:encyclopectorさんの記事を読んで「クラオタの聴取態度は、ユートピア的だ!アドルノの夢想したユートピアの住人は、クラオタだったのかも!!」とか考えてしまった。以下、思いついてしまった無茶苦茶な論理展開が繰り広げられてるんで畳む。紹介したCDは本当にすごく良いです。そこだけは嘘じゃない。




 タワレコとかHMVのクラシック・コーナーに入り浸るクラシック・ファンは、ものすごい量のCDを買う。しかも呆れるくらいに同じ曲で違う演奏者のCDを買う(自分もそういう種類の人間だ)。人によって「思わず買ってしまう曲」というのは違うだろうけど、私にとってはショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番がそれ。たぶん10枚以上あるんじゃなかろーか。私よりもっとすごい知り合いになると「買ってしまう曲」が「買ってしまう全集」にまで拡大されて、マーラーの交響曲全集を10セット以上持っている人までいる。それだけでCDが100枚を超えちゃうだろう。オタクの購買意欲ってすごいのである。


 こういう話をクラシックを聴かない友達なんかにすると「ねぇ、なんでそんなに買ってどうするの?」と訊ねられる。これはすごく答え難い質問だ。CDは食べられないし、場所を取るし、音楽を再生すること以外にはカラス避けぐらいにしかならないし……。またある時はこんな風に訊ねられる――「クラシックって違いを楽しむものなの?比較したりして」と。これも微妙なところだ。まぁ、違いを楽しんでいるのは否定できない。でも私は下のように言われることだけには断固として、決然と「違う!」と答えたい。



クラオタってなんか色々あれこれCDあげて、イチャモンつけて「あれはダメ。これはダメ」とか言う人たちでしょ?



 まぁ、こういう人もいることにはいるんだけど……。でも私は違う(!)。それに私の周りにはいない。いるとしたらタワレコとかHMVとかじゃなくて、石丸電気の海賊盤コーナーか2ちゃんねるのクラシック板にはわんさといるだろう。けれど、良心的なクラシック・ファンはきっともっと世界が広いはずだ。


 ここでアドルノに話が一気に飛ぶ。今、夜更かししながら藤野寛のアドルノ/ホルクハイマーの(問題圏;コンテクスト)―同一性批判の哲学という本を読んでいる(そんなだから、クラオタとアドルノを接続して考えることができたわけだ)。読了したらまた改めて感想を書くけれど日本語の二次文献としてはすごく良い本だ。この本のなかでは、アドルノとホルクハイマーの「反ユダヤ主義の分析」についてこんな風に書かれている箇所がある。



アドルノが願ったのは、(ドイツ人と)「同じではない」ユダヤ人というあり方が尊重された上で「同じ」人間として遇されることであったはずである。



 これはアドルノ/ホルクハイマーの非同一性の思想のなかで、最も分かり易い実際的な例だろう。ユダヤ人とドイツ人は「同じ」人間として同一化することができる。しかし、それは条件付な同一化だ。現に大戦以前にドイツ人たちのなかに同化しようとしたユダヤ人たちは「ユダヤ教信仰を捨て」、「割礼をやめ」、「イディッシュ語を捨て」た。同化ユダヤ人を受け入れる側からすれば、こんな風に言えるだろう――「ユダヤ教信仰を捨てて、割礼をやめて、ドイツ語喋るんだったら、俺っちの仲間に入れてやってもいいぜ」という具合に。その同一化の一方向性には「多様性」存在し得ない。見るからに暴力的だ。


 こういった態度をアドルノとホルクハイマーは批判した。引用した部分は、そういった「行き過ぎた同一化」批判から望まれる変化だろう。ただ、著者はここで『はずである』と強い言い方をしているけれど、そんな風にベタで考えていたかはよく分からない。やっぱり「『同じではない』ものを尊重しつつ、『同じ』だ」なんて言えないような気がする。アドルノ/ホルクハイマーだって、それが不可能だからシニカルにそれを標榜してたんじゃなかろうか(ガチなロマンチストだとは到底思えないから)。不可能だからこそアドルノは、そういった状態を「ユートピア」と表現したんじゃないかな、と思う。


 でも、あったんだよ。(良心的な)クラオタの心の中には!!



ブラームス:交響曲全集
ケンペ(ルドルフ) ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 ブラームス
ユニバーサルクラシック (2000/06/24)
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Brahms: Symphonies Nos. 1-4; "Haydn" Variations; Alto Rhapsody; Overtures
Johannes Brahms Otto Klemperer Christa Ludwig Philharmonia Orchestra of London
EMI (2004/04/06)



 今、目の前に二つのブラームスの交響曲全集がある。片方はルドルフ・ケンペ/ベルリン・フィルによる演奏。もう片方はオットー・クレンペラー/フィル・ハーモニア管による演奏。前者はキビキビとしたテンポで、スマートかつ現代的。後者は一歩一歩雪の上を踏みしめて歩くようなテンポで、豊かな響きがある。


 悪いところをあげるなら、ケンペの録音はいささか音質が悪い。ベルリン・フィルは抜群に上手いけれど、録音技術のせいもあり冷たく聞こえてしまうかもしれない。一方、クレンペラーの演奏は時にそのルバートや場面展開が田舎くさく聞こえてしまうきらいがある。録音は50~60年代にかけてとは思えないほど抜群で「昨日のサントリー・ホールでの演奏」と偽っても通用しそうだからこの時期のEMIの録音はすごい(ちなみにこの二つの全集に録音時期の大きな差はない)。


 クラオタはここで「真のブラームスの姿に肉薄した演奏はどちらか!?」などとは考えない。もしかしたら「あー、ケンペの演奏ねぇ……録音があんまり良くないよねぇ……」、「クレンペラー?まぁ、悪くないけどテンポ遅すぎだよなぁ」とは指摘をするかもしれない。けれど、最終的に「どちらも良い演奏だ。歴史的な名録音と言っても良い。どっちも捨てがたい」と言うはずだ(『ついでにベーム/ウィーン・フィルの演奏も歴史的名録音だよな』とさえ付け加えるかもしれない)。


 要するに、この状態は「同じではない」クレンペラーとケンペというあり方が尊重された上で「同じ」ブラームス演奏の名演として遇されていると言えるだろう。そもそも「ケンペの録音がもっと良かったらねぇ」、「クレンペラーのテンポがもう少し速かったら」ということに何の意味があるのだろうか。それを願ったその瞬間から、その演奏はケンペである必要はなく、クレンペラーである必要も無い。演奏者の固有名が失われてしまうのである。


 これは一つの例に過ぎない(別にブラームスじゃなくても良い。ベートーヴェンでもブーレーズでもなんでも良い)。しかし、分かっていただけただろうか。アドルノ/ホルクハイマーが提唱するユートピアがクラオタの精神のなかには成立している、ということを。


 クラオタの精神は「音楽への愛」によって成立している、と私は考える。もしそうであるとするならば、アドルノ/ホルクハイマーの思想も「愛」によって成立させられたことを示していないだろうか。


 何に対しての?――もちろん人間に対しての。ただペシミスティックな批判を繰り返してるだけじゃないんだよ。





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