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読売日本交響楽団第470回定期演奏会@サントリーホール



 読売日本交響楽団の招待券をいただく機会に恵まれたので*1、張り切って会社を午後休し聴きに行ってきた。本日のプログラムはアントン・ブルックナーの交響曲第5番。指揮はスタニスラフ・スクロヴァチェフスキ。改修後のサントリー大ホールの座席に座るのは初めてだったし、読響の実演にも、スクロヴァチェフスキの実演にもこれまで触れたことがなかったのだが、ほとんどすべてが完璧にうまくいったコンサートだったと思う。素晴らしかった!


 第4楽章のフィナーレ――オーケストラの全楽器がフォルテッシモで音を鳴らし、肌で空気の振動を感じるぐらい音がホール全体に広がっているなかで、思わず号泣してしまった。ようやく落ち着いたのが、オーケストラが舞台袖に下がってから。観客の熱狂はまだ続いていて、カーテンコールはたぶん7回ぐらい繰り返されたはずだ。オーケストラがいなくなっても、大勢が客席に残ってスタンディングオベーションを続けていた。日本にもこういう風に愛されているオーケストラがあったのだなぁ、というのはちょっとした驚きだった。今夜のことがあって、私もファンになりそうである。


 ミスターSこと、スクロヴァチェフスキの解釈も驚くべきものだった。まず、音の組み立て方が素晴らしい。細部の細部までスコアを読み尽くしたところから生まれているであろうブルックナーには「ブルックナーらしい無駄さ、わけのわからなさ」が綺麗さっぱりとそぎ落とされ、理路整然とした音楽に仕上がっていた。音楽の流れのなかに常に歌があり、平凡なコントラバスのピッチカートの部分にさえ「そこ!歌うところ!!盛り上げて!!」という具合に指示を飛ばす指揮ぶりには何度も痺れさせられた。「そこでそんな風に盛り込んでくるか!」と感じるたびに、くはー、とため息が出る。


 こんなに親しみやすいブルックナーは他にない、と私は思う。ロブロ・フォン・マタチッチの野蛮さ、ギュンター・ヴァントの透き通った深遠さ、それから朝比奈隆の豪快さ、それらがどれもブルックナーを「神への祈りが作品と一体になった神秘的な作曲家」へとしたてあげているのに対して、スクロヴァチェフスキのブルックナーには常に現世に留まるような落ち着きがあるように感じた。ブルックナーがバッハのように自分が生きた時代と無縁の音楽を書き続けたのではなく、あくまで19世紀初頭から19世紀末の華麗なるウィーンを生きた作曲家であることを示すような音楽である。とくに第3楽章のワルツ部分には、テンポの揺らし方に素晴らしいエレガンスを感じた。ほとんどポップスのような感覚で聴けてしまうという恐ろしいブルックナーである。あっという間の1時間だった。



ブルックナー:交響曲第5番
スクロヴァチェフスキ(スタニスラフ)
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 見た目は堅物そうなのに、どこからあんなに豊かで優しい音楽が生まれてくるのか……。ブルックナーの全集を買うときは、スクロヴァチェフスキのものを選ぼうと思う。




*1id:redsmokeさん、ありがとうございました!





コメント

  1. abcです。いやー行きたかっ…スクロヴァのブルックナーは奇数番号が特に素晴らしいことは知っていたのに…悔やんでも悔やみきれない…ヤルヴィ(息子)のマラ9は買ったんだけどね…

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  2. じゃあ9番も良いんですか?ますます聴きたくなってきました。

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