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サントリー音楽財団創設40周年記念 サマーフェスティバル2009 特別演奏会 シュトックハウゼン<グルッペン> @サントリーホール 大ホール




ジェルジ・リゲティ:≪時計と雲≫ 12人の女声とオーケストラのための


カールハインツ・シュトックハウゼン:≪グルッペン≫ 3群のオーケストラのための


指揮:スザンナ・マルッキ(オーケストラII)/パブロ・ヘラス=カサド(オーケストラI)/クレメント・パワー(オーケストラIII)


管弦楽:NHK交響楽団


女声合唱:東京混声合唱団


 個人的に今年の夏を締めくくる大イベント、シュトックハウゼンの≪グルッペン≫の生演奏を聴きに行ってきた。これはなかなか刺激的、というか、衝撃的な体験。当ブログでは以前にもこの作品について触れたことがある*1けれど、やはりYoutubeにあげられている映像や、録音ではまったくその真価が伝わらないとんでもない作品であるなぁ……とド肝を抜かれてしまった。





 この≪グルッペン≫という作品が持つ大きな特色として、三つのオーケストラが使用されていて、それらのそれぞれオーケストラは会場の別々な位置に配置される、ということがあげられる。今回の演奏会では作品を、二度演奏し、一度目と二度目で違う場所から聴くことができる、という試みがなされていた。


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 私は今回、一度目をオーケストラ群に囲まれる中心で聴くことができた。一度目の演奏では、金管楽器や打楽器の咆哮が自分のまわりをぐるぐると回る効果をよく体験できたが、弦楽器などの音があまり聞こえず、また、オーケストラの位置が近すぎて細かい動きについてはほとんど何をやっているのかわからない。三人の指揮者が互いにどういった指示を出し合っているのか、についても、そこからはまったくわからなかった。「たしかにこれは理解不能な音楽の極北と揶揄されても仕方が無いかもしれない」と思ってしまった。





 しかし、二度目にオーケストラをすべて俯瞰できる二階席で聴いたところ、かなり印象が違って聞えた。ほとんど別な音楽のように聞えるのである。その位置からは、それぞれの指揮者が担当しているオーケストラが今なにをしているのか、そして相互的にどういう関係で動きあっているのかが把握できるし、弦楽器の音もちゃんと聞える。だが、音に囲まれる、という効果はこの位置では味わうことができない。三つのオーケストラは、三つのオーケストラでなく、ただ単に通常より大きなステージに配置された巨大な一つのオーケストラに聞えてしまう。





 二度の演奏を聴き終えて、結局のところ、この作品を「どの位置で/どの距離で聞くのが正解なのか?」という問いに対する答えは出せない、ということに気がついてしまう。そこで思い出したのが、武満徹が書いた「スペース・シアターに関する基本理念」という文章だった。これは1970年の万国博覧会で建設されたスペース・シアターの音響設計を武満が担当した際に書かれた文章である。



 これまでのコンサート・ホールにおける鑑賞形式は、特殊に方向付けられた空間での固定の音(源)の量的体験であり、便宜的に規定された演奏の場――ステージ――と、空間的にきわめて限定された場――客席――として質的空間は単純な二つの量的空間に区別されていた。そこでは、音それぞれが内にもつ固有の質的空間というものも一括された量に置換えられている。/あらかじめ仕組まれた二つの量的空間は運動を起こすことがなく、人間の体験(空間的・時間的)は質的体験としておこなわれず、画一化された仮りのものであった。(中略)まず、固定された客席という観念を、コンサート・ホールの構造からなくそう。/そして、コンサート・ホールの空間構造は、質的に異った無数の空間が重層している状態として想像されるべきである。



 武満の構想した理念と、≪グルッペン≫によってもたらされる効果には極めて近いものがあると言えるだろう。武満がコンサート・ホールという場そのものを改造しようとしたのに対して、シュトックハウゼンが既存のコンサート・ホールのなかで「質的に異なった無数の空間の重層」を実現した、という違いはあれど。





 私は今回≪グルッペン≫を聴いたことによって、この試みのラディカルな部分を改めて実感できた気がする。通常、コンサートというイベントのなかで、観客たちは同時的に一回性の「同じイベント」を体験する(はずである、と考えられている)。しかし、≪グルッペン≫においてはそのような「同じイベント」が観客たちのなかで共有されることはない。聴いていた場所によって、聞えてる音がまるで違うのであれば「同じイベント」を共有できないことになる(「無数の空間が重層」)。





 だが、ここで「無数の空間が重層しているのは、通常のコンサートでも一緒ではないか? コンサート・ホールで指定されたS席とC席では、聞こえている音は違うだろう」という指摘も可能だろう。ただし、それは事後的に確認されたものである。それまで「通常のコンサート」における空間の重層は隠蔽されており、「特殊なコンサート」によって初めて明示化されるのだ。そして、無数の空間が重層していることが隠蔽された状態で音楽を聴いていた、という事実は「画一化された仮りのもの」を聴いていた、ということを意味する。隠蔽された事実が明らかになった場では「音楽が(適切に)鑑賞する」という根本的な態度も問題化される。





 尻切れトンボな感じになってしまうが、本日はこのあたりで感想を書くのを止めておこう。前プロで演奏されたリゲティの作品も良かった。あと会場に久石譲がいた!






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