真木悠介『気流の鳴る音――交響するコミューン』

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気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)
真木 悠介
筑摩書房
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 見田宗介の真木悠介名義(日本の社会学界でこのように名義を使い分けている人は、この人ぐらいなのか? まるでエイフェックス・ツインみたいである)での代表作を読む。一九七七年の作品。最初の刊行からすでに三〇年以上も経っているが、今なお「鋭い……」と思わせられる作品であった。冒頭、ヤマギシ会について言及している部分があるが、これをほとんど好意的な感じで捉えているのも興味深い。ヤマギシ会といえば、いまやほとんどカルト扱い。基本的には批判的な文脈においてでしか登場しないものかと思っていたのだが、当時はそうでもなかったのだ、と思ってしまった。私自身、ヤマギシ会の存在を知る機会となったのは、学生時代のある授業においてであり、そこではやはり「人間の主体性を奪ってしまう洗脳的なカルト」というような感じで紹介されていた。一九七〇年代後半には、まだコミューンというものが存在しており、希望として捉えられていたのか、と思うと感慨深いものがある。





 本書の全体は三部に分かれており、その大部分が第一部の「気流の鳴る音」に割かれている。この部分は、メキシコの部族社会で生きる呪術者、ドン・ファンのもとに弟子入りをして、その修行生活を記録していた、と言われるカルロス・カスタネダの著作への注釈学、と言っても良いと思う。カスタネダの記録を大量に引用し、それについてコメントをつけていく。しかし、真木悠介のコメントは引用に対して、説明的になることはなく、引用とパラレルに進んでいくような感じがする。不思議な読後感だ。近代に生きる人間の意識が、このパラレルに進行する引用文と地の文の合間の中で、どんどん相対化されていく。このとき、真木の胸のなかにも、ドン・ファンの自由な生き方(世界の捉え方)に対して、素朴な憧憬がある、と言って良いだろう。前近代的な、もはや過ぎ去ってしまい、戻ることのできない意識への憧憬がそこにはある。



ドン・ファンはわれわれを<まなざしの地獄>としての社会性の呪縛から解放する。しかし同時に、それはわれわれの共同性からの疎外ではないだろうか?


執着するもののない生活とは、自由だがさびしいものではないのか?



 この疑問符に込められた葛藤は、まさに「近代」を知ってしまった者、「近代」を自明なものとして生きてきたものの葛藤であろう。我々は近代のしんどさについても知っているし、逆に楽さについても知っている。だからこそ、葛藤が生まれる。ドン・ファンの生き方には、近代のしんどさは存在しない(ように見える)。しかし、近代の楽さもまた存在しないのだ。この葛藤の中に、真の相対化が見出せるような気がする。





 また、第二部の「旅のノートから」も面白かった。こちらは朝日新聞に掲載された、文字通り旅行記のような文章なのだが、大変に文学的なエッセイとなっており、ますます行ったことがない異国に行ってみたい、という思いを刺激させられる。とにかく、真木悠介モードの見田宗介の文章は美しい、と思う。この美的で、かつ知的な文章のスタイルに、大澤真幸が影響を強く受けた、というのは想像に難くない。





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