プラトン強化期間の一環として読む。およそ二ヶ月ほど前からこの催しを継続しているが、ついにいわゆる「後期プラトン」に入ってしまった。読んでいない作品も多々あるが、次に『法律』を読んだら、一旦プラトン強化期間は終了し、アリストテレス強化期間に入りたい(そもそもこういった試みは高校生とか大学生とかの頃にやっておけば良かったなぁ、とか思うが、もはや後の祭りである)。で、『テアイテトス』であるが、これはこれまで読んだプラトンの著作のなかでも、最も難解に感じられた。副題に「知識について」とあるように、ここでは「そもそも知識とは何のことであろうか」ということについての議論がおこなわれているのだが、その議論において、これまでのプラトンの著作であったように「魂を良くするためにはどうすれば良いか」といったような倫理的/道徳的問題については触れられず、ひたすら「知識とはどういったものなのか」という議論が続けられる。また、議論は一種の認識論的な領域まで及ぶ。その際、「言語」という枠組みがなければ、認識はできない、みたいな「すわ! 構造主義か!」とか「すわ! デリダか!」といった話が出てくるのだが、なんだか面白く思えなかった。もちろん、その感想は「その問題が、個人的な問題として捉えることができなかった」ことから生まれているのであるが……。知識とは何か、認識とは何か、こういった問題は至極根源的な問題であろう。しかし一方で、それらの問題は(勝間和代流に言えば)「起きていることは、すべて正しい」とも言えるような気がする。そういうワケだから、「この時代の人はこのように考えていた」というような歴史学的な視点を学ぶために、大昔の人の本を読む、という態度はアリだ。というか、そういう風に読んでいたほうが楽しい気がしてきている。
昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。 「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。 これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。 もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。 もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

コメント
コメントを投稿