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スパイク・ジョーンズ監督作品『かいじゅうたちのいるところ』




かいじゅうたちのいるところ-オリジナル・サウンドトラック
カレンO・アンド・ザ・キッズ
ユニバーサル インターナショナル (2009-12-23)
売り上げランキング: 819



 劇場で観た予告がとても印象に残っていて初日に観に行きました。主人公の男の子がまるで全盛期(?)の神木隆之介を思わせる愛らしさで、また、かいじゅうたちのモサモサ感がとても良かったです。一応、原作の絵本は読んでいたのですが、大筋は一緒でも中身は全然違う作りになっている……というか、原作に含まれるファジーな意味内容をより具体的にし、意味を伝えやすくするような映画化だったのかな、と思います。





 素晴らしかったのはとにかく「こども的な全能感」が発露され、主人公の男の子がやりたい放題やりまくるシーンでした。これは観ていて、とても清らかな気分になります。しかし、こどもはどこかで自分が全能ではない、ということを知らなくてはいけない。それは、他者と折り合いをつけながら生活しなければならないことを学ぶことでもありましょう。主人公が自分が作り上げた空想的な世界に迷い込んでしまうのも、その自分が全能ではないことに対する気付きに伴うショックであるように解釈できます。





 しかし、男の子はその迷い込んだ世界のなかで、鏡にうつった自分のような存在と出会い再び全能感を得てしまう。ただ、その別な世界でも何かが上手くいっていない。悲しいことに、迷い込んだ世界も安住できるような世界ではなく、現実的な他者との折り合いをつけなくてはならない、といった作りになっている。その事態に直面したとき、主人公はかつて母親が自分を叱ったときに使ったのと同じ言葉を鏡にうつった自分のような存在に投げてしまう。





 そこで自分を他者のように認識するような客観的な視点が主人公のなかに生まれるのです。最初、主人公には母親がなぜ自分を叱るのか、姉がなぜ自分を大事にしてくれないのか、が理解できない。全能である自分をなぜ受け入れてくれないのか。このことが主人公には非常に不条理なものとして思われてしまう。しかし、同じような不条理を自分のなかにも見つけることで、主人公は他者の不条理を受け入れ、家に帰ることができる。その過程がこの映画が成長の物語として読み取れる要因にもなっている、と思いました。





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