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トマス・ピンチョン『ヴァインランド』





 2009年→2010年……年をまたいで、ようやく読み終えました。トマス・ピンチョンの『ヴァインランド』*1。最初は少し違和感があったすごく書き下した感のある佐藤良明訳も、読んでいるうちに慣れはじめ、すごく読みやすい翻訳になっていると思いました。膨大で詳細な訳註もまた楽しく読めました。作品的にも今まで読んだピンチョン作品のなかで最もポップで、読みやすい作品だと思います。読みやすさを順位付けすると、こんな風になる(短編は含めず)。





  1. 『競売ナンバー49の叫び』(長さ的にも一番とっつきやすい)

  2. 『ヴァインランド』

  3. 『V.』(デビュー作だが、デビュー作からピンチョン! って感じ。長い)

  4. 『重力の虹』(極悪)



 訳者による解説で強調されているように、小説の舞台は1984年、とされています。いわば『ヴァインランド』はピンチョン版『1984』なのです……が、その一方で村上春樹の『1Q84』とリンクしなくもない、という風に思われました。『ヴァインランド』のなかでは、《TV(チューブ)》と《映画(フィルム)》、《警察》と《ヒッピー》、《政府》と《革命》、さまざまなシステムの対立が描かれます。それらは大きなシステムと小さなシステムとの対立と言っても良いかもしれない。そこでは悲痛な感じはなく、コミック風の描写によって、大きなシステムが弱いシステムが蹂躙されていく。やはりそこには悪の象徴のような人物も登場人物も存在する。これらは『ヴァインランド』と『1Q84』の共通点として挙げられましょう。





 しかし、『1Q84』での登場人物たちがそれぞれの《善》を行動倫理にしていたのに対して、『ヴァインランド』の登場人物たちは《欲望》が剥き出しのまま行動しているように思われます。その直球ぶりは「好きなだけテレビを観て、好きなだけ食べる!」といったカウチポテト的欲求の象徴なのかもしれません。小説では第二次世界大戦後~80年代という時間のなかをいったりきたりして大変ややこしいのですが、基本的にそういう雰囲気が共有されているような気がしました。これは、現代においてはありえない感覚かもしれません。「好きなものを好きなだけ」は明らかにトレンドではないですよね。ダイエットであったり、エコであったり、今のトレンドは放埓な消費主義ではなく、禁欲主義(?)に向いている。





 ただ『ヴァインランド』には、こんな風に読み込ませることが可能な複雑さがある一方で、「生き別れた母(娘)に会いたい!」、「別れた女房が忘れられない!」という非常にシンプルな欲求がストーリーの主軸に据えられてもいるのです。「女房(母)に会いたい!」というゾイドとプレーリィの親子のキャラクターも魅力的ですし、これが読みやすさの理由のひとつなのかもしれません。特に最後のほうでブロック・ヴォンドの策略によって、十数年間住んできた自分の家を差し押さえられてしまったゾイドが名残惜しさに、夜な夜な元自分の家を見に行く……という描写なんかがしんみりきちゃって良いですね。プレーリィもとてもキュートな女の子だし。こんな人間描写って『ヴァインランド』以前のピンチョン作品にあったかな? と思わされました。





 こうなってくると佐藤監修による今年の6月から新潮社の「ピンチョン・コンプリート・コレクション」が楽しみになってきますね(2009年にピンチョンの新作が発表されていますが、こちらもシリーズに組み込まれるのでしょうか!?)。解説にはピンチョン先生の最新情報や年譜が収録されているので、1998年の新潮社版『ヴァインランド』を既読の方も要チェックです!




*1:読了に伴いましてトマス・ピンチョン『ヴァインランド』登場人物リスト - 「石版!」も完成させましたので、これから読む人はチェックしてみてください(一度しか出てこない人物ももれなく記載しているため、かえって読書の妨げになるかもしれませんが……)





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