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俺のピクルス出し



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 あけましておめでとうございます。この年末年始は料理と漫画を読んでばかりいます。今年は批評っぽいことも書ける料理ブロガーとして名をあげ、料理本を出したいですね。本のタイトルは『料理する力』あるいは『料理の品格』といった感じで。その本の原稿料と印税で、圧力鍋とヘンケルスのペティナイフを買いたいです――とか言って、新年早々どうでも言いことを書き連ねておりますが、そんな自称・料理ブロガーである私が目下研究中であるのが、ピクルスでございます。



もてなし上手 復刻版―基本はいつものおかずです (扶桑社ムック)
栗原 はるみ
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こちらのレシピを元ネタに、いろいろと試行錯誤をしながら作っているのですが、最近作ったのがかなり理想系に近いのでそのレシピを公開してみますね。ちなみにこの栗原はるみさんのレシピどおりに作ると、福島県福島市の市街地にあるバー「木馬館」で出している自家製ピクルスとまったく同じ味になります。「すっぱすぎず、甘すぎない味付け」と本にはあるのですが、個人的にはこのレシピどおりに作ると「パンチが足りないぜ!」という感じでして、全然物足りない。やはりピクルスは「染みるぜ!」というぐらいに酸っぱいぐらいが美味しいと思います。齧ったときに口の中に広がる強い酸味が、俺に生の実感を与えてくれる……死にたいんじゃない、生きてる実感を得たいがために痛みを知りたい*1、っていうこの気持ちをわかっていただける方に、私のレシピをオススメいたします。


材料

<漬け汁>



  • 白ワインビネガー 2カップ

  • 白ワイン 1.5カップ

  • 黒粒コショウ 小さじ1

  • 砂糖 50g

  • 塩 小さじ1

  • 鷹の爪 1本

  • にんにく 1かけの半分

  • ローリエ 1枚

<野菜>



  • 好きなものを好きなだけ(ウチではキュウリ2本、ニンジン1本、カリフラワー1個、セロリ2本ぐらい漬けます。季節の安い野菜を適当に選べばよろしい)




作り方



  1. <漬け汁>の材料を鍋にブチ込んで、軽く煮出たせ、冷ます。

  2. <野菜>を軽く湯通しし、冷まして、ビンに入れる。

  3. 冷めた<漬け汁>を野菜が入ったビンに注ぎ込み、冷蔵庫にいれて半日ぐらい置く。

  4. ウチに来たお客さんに出して「え!? これ自分で漬けたの!? スゴイ!」という反応を楽しむ。


 以上です。作り方の4にも書きましたけれど、この手軽さでこの反応の良さはかなり美味しいです。





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