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外山明+内橋和久duo @杜のホールはしもと 多目的室



 外山明と言うドラマーは自分のなかで日本のドラマーで一番好き! と叫ぶことができる存在なのですが、ライヴで観るのはこれが実は初めてでした。久しぶりの即興系ライヴということで寝てしまわないかどうか心配だったけれども、始まってみたら興奮しっぱなし。外山明が右手右足左手左足で違うリズムを叩いている姿に悶絶し、内橋和久が複数のエフェクタを迷いなく操作しながらダクソフォンとギターで作りだす自在の音に魅力されつくしでした。もう、超良いライヴでしたよ……!そもそも即興系のライヴ自体、そんなに数を聴いてるわけじゃありませんが、間違いなく自己ベストアクト。





 ライヴはPAなし(ギターアンプは寝かせて、天井を向いている)でステージもなし。演奏者2人を観客がぐるりと取り囲む車座のようなセッティングで行われたんですが、これも演奏者の目線や、コンタクトが伝わるようで面白かったです。演奏は45分ぐらいのセットを一度休憩挟んで2セット。あるフレーズや、パターンの提示が片方からあると、それに対して応答があったり、無視があったり、やりとりが見える。それは喩えるならば“対話”なのですが、双方の音楽が綜合される瞬間も、ズレていくときの離散も、楽しく、刺激的でした。どこかに向かっているわけでもなく、途切れることもあるば、急に盛り上がったりもする。その場に現れる音楽はあたかもガールズトークのように一瞬で流れていき、今この感想を書いている間には既に大部分が忘れさられてしまい「楽しかった……」という印象しか残っていません。切ない。けれど、切なさがゆえにこれほど、胸に残るのか。





 初めて聴くダクソフォンの音も強烈でした。これは内橋の友人のドイツ人ギタリストが開発した楽器らしいのですが、木のヘラ的なものをスタンドに装着し、弓で擦ったり、はじいたり、叩いたりした音をコンタクトマイクで拾う……という原理で音を出すものに見えました(内橋は日本で唯一のダグソフォン奏者、らしい)。木のヘラは着脱・交換が可能でいろんな種類が用意されていたけれど、4種類ぐらいしか使っていなかった気がする。で、仕組みとしては割りと単純なのですが、振動体が木なだけあって、もうなんだかスゴい。人の声のような音を出したり、発砲スチロールを擦り合わせたときにでる生理的に嫌な音みたいな音を出したりと、異色で多彩。洗練された音、とはまず言えず、はっきり言って野蛮な音が出る、と言って良いのでしょう。しかし、その野蛮さにどこかアフリカやカリブ海の民族音楽で使われる楽器の音色を思わせるところがあり、外山が叩くアフリカンなリズムと絶妙にマッチする瞬間がありました。



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 (映像は外山が参加しているBOZOのライヴ映像)あとライヴ中、どうして外山のドラムはこんなにも気持ち良いのだろう、と考えてしまったのですが、やっぱり、彼が記譜できそうにない強烈な“訛り”を小説のなかに持ち込むことができる魔術師的ドラマーだったからなのでしょう……。大部分は訛ったビートが刻まれ、大部分は右手右足左手左足でポリリズムを展開している。この間、聴いているほうは、ものすごい不全感でモヤモヤし続けます。ただ、外山はどっかでそれバラバラさがひとつに統合される時間を作ってくれるのですね。その統合がもたらすブチあがり方がものすごい。





 ライヴは「杜のホールジャズセレクトシリーズ」の一環として企画されたもの。会場内には南博、大友良英、坂田明、渋谷毅……と日本の(スウィング・ジャーナルに載らない系の)ジャズ界の錚々たるメンバーのポスターが貼られており、おそらくそういった道に多大な理解がある方が主催者側にいらっしゃるのでしょう。すごく良いライヴを観せていただけたので、今後も続いてほしいシリーズだと思いました。





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