スキップしてメイン コンテンツに移動

ルドルフ・シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』




いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか (ちくま学芸文庫)
ルドルフ シュタイナー
筑摩書房
売り上げランキング: 32823



 一般的には(?)「シュタイナー教育」で有名なルドルフ・シュタイナーの神智学・神秘学関連の本がちくま学芸文庫から色々出ています。こんなものその手の話が好きな人(マジな人)か、物好きしか読まないと思うのですが、物好きなので一冊読んでみました。今、アマゾンのレビューをみてみたらあまりの絶賛ぶりに背筋がちょっぴり寒くなってしまいました。おそらくこちらはマジな人によるレビューなのでしょう。とはいえ、その絶賛ぶりは読み終えた後だとおかしくないように思えてくるのだから、シュタイナーという人は大変な人物だったのだなぁ、と思いました。面白かったです。





 『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』。はっきり言ってタイトルからしてものすごいのですが、本の内容はそのタイトルのとおり「超感覚的世界の認識をどうすれば得られるのか」という一種のハウツー本です。シュタイナー曰く「どんな人間の中にも、感覚的世界を超えて、より高次の諸世界にまで認識を拡げることのできる能力がまどろんでいる」とのことですので、大変門戸が広いですね。しかも忙しい人は修行は毎日5分だけでも充分! 毎日5分の修行を続ければ、霊眼が開き、エーテル体(生命から出ているオーラみたいなもの)が見えるようになったり、アストラル体(魂を形成しているサムシング)を認識でき、魂によって動物の言葉を聞くことができるようになる! というのだからもう笑いがとまりません。すごい、すごすぎる! あと大事なのは愛ね! 批判的な認識力を殺し、愛を持ってすべての物事に接することによって、内的平静が生まれ、それもまた超感覚的世界の認識に役立ちます。まるでマイケル・ジャクソンみたいじゃないか! 怒ってないんだ、愛なんだ、L・O・V・E。





 ……とキャンプな見方で面白かったポイントを紹介するのはここまでにしておきましょう。読みながらすごく笑ったのですが、ちょっとマジメに興味深いなぁ、と思える点がこの本にはいくつもあるのです。まず第一には「きっとこの本ってオウム真理教の教義にも取り入れられてるだろうなぁ」ということ。オウム真理教の教義がさまざまな宗教と科学のキメラのようなものだったことは有名ですが、シュタイナーの影響もかなり大きかったのだろう、と(おそらく偉い人がすでに指摘しているでしょうが)。それはエーテル体、アストラル体といった術語体系からだけではなく、宗教と科学とが対立しない原理からも感じられます。第3版のまえがきでシュタイナーはこのように記しています。



(神秘学には)たとえば現代科学の所説に従う人には到底受け容れられないと思えるような場合がいくらでも出てくる。(しかし)本当に霊学(=神秘学)の立場と矛盾する研究成果は科学の分野においても存在しない。(中略)霊学と真の実証科学との研究成果をよく比較してみるなら、両者の間に存する見事なまでの完全な一致がますます認められるようになってくる。



 はい、すごいことを言っております。この文章が書かれたのは1909年、およそ100年前のものになりますが、オウムだけではない、すべてのカルトに多大な影響を与えていそうな気がしました。しかし、シュタイナーの思想で興味深いのは、修行によって超感覚的な世界を得ることの最終的な目的が、感覚的な世界(日常世界)から解脱することではない、という点です。これはオウムやその他カルトが言うような「我々だけが救われる」だとか「最終的な救済」を得られる、といったものとは一線を画している。





 シュタイナーの世界観は感覚的世界/超感覚的世界という二元論的なものです――それは前者は汚れた世界、後者は清らかな世界という風になっていますから、グノーシス主義的なものと呼んでもさしつかえないでしょう。彼は超感覚的世界へ参入すること(イニシエーション)は素晴らしいことである、と説きます。しかし、修行によってその魂をそのような高次のステージにもっていくことができたとしても、そこに留まることは許されていない。むしろ、解脱しきってしまうことは悪しきことであり、感覚的世界に留まりながら、超感覚的世界との交流を続けることが良いこととされている。




 なぜなら超感覚的世界への参入者には大事な仕事が残っているからです。あなたが超感覚的世界への参入ができたのも、すべて感覚的世界のものごとがあってのことなんだから、感覚的世界の住人を一人でも超感覚的世界につれてきなさい――と参入者は守護霊*1に言われてしまう。だから、参入者は感覚的世界に留まらなくてはならない、とシュタイナーは説明しています。これは大乗仏教的にも、イエズス会宣教師みたいな態度にも思えます。攻撃的ではなく、教育的である。世界観の怪しさと、このあたりのバランスが面白いです。ますます興味が出てきたので、違う本も読んでみたいと思いました。




*1:霊眼が開いていくと、いろんな種類の守護霊が見えるようになる





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」

桑木野幸司 『叡智の建築家: 記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市』

叡智の建築家―記憶のロクスとしての16‐17世紀の庭園、劇場、都市 posted with amazlet at 14.07.30 桑木野 幸司 中央公論美術出版 売り上げランキング: 1,115,473 Amazon.co.jpで詳細を見る 本書が取り扱っているのは、古代ギリシアの時代から知識人のあいだで体系化されてきた古典的記憶術と、その記憶術に活用された建築の歴史分析だ。古典的記憶術において、記憶の受け皿である精神は建築の形でモデル化されていた。たとえば、あるルールに従って、精神のなかに区画を作り、秩序立ててイメージを配置する。術者はそのイメージを取り出す際には、あたかも精神のなかの建築物をめぐることによって、想起がおこなわれた。古典的記憶術が活躍した時代のある種の建築物は、この建築的精神の理想的モデルを現実化したものとして設計され、知識人に活用されていた。 こうした記憶術と建築との関連をあつかった類書は少なくない(わたしが読んだものを文末にリスト化した)。しかし、わたしが読んだかぎり、記憶術の精神モデルに関する日本語による記述は、本書のものが最良だと思う。コンピューター用語が適切に用いられ、術者の精神の働きがとてもわかりやすく書かれている。この「動きを捉える描写」は「キネティック・アーキテクチャー」という耳慣れない概念の説明でも一役買っている。 直訳すれば「動的な建築」となるこの概念は、記憶術的建築を単なる記憶の容れ物のモデルとしてだけではなく、新しい知識を生み出す装置として描くために用いられている。建築や庭園といった舞台を動きまわることで、イメージを記憶したり、さらに配置されたイメージとの関連からまったく新しいイメージを生み出すことが可能となる設計思想からは、精神から建築へのイメージの投射のみならず、建築から精神へという逆方向の投射を読み取れる。人間の動作によって、建築から作用がおこなわれ、また建築に与えられたイメージも変容していくダイナミズムが読み手にも伝わってくるようだ。 本書は、2011年にイタリア語で出版された著書を書き改めたもの。手にとった人の多くがまず、その浩瀚さに驚いてしまうだろうけれど、それだけでなくとても美しい本だと思う。マニエリスム的とさえ感じられる文体によって豊かなイメージを抱か