ヘルムート・ラッヘンマン《グリド》の解説

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Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso

Kairos (2008-01-14)
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 「KAIROS」レーベルから発売されているヘルムート・ラッヘンマンの弦楽四重奏曲集についてきたブックレットには作曲家自身による曲目解説が収録されている。これを日本語にしてみた(原文はドイツ語。英語訳からの重訳)。「くだらねー批評みたいなモノを書き連ねてもちっとも人様の役にたたねぇよ! ちょっとはインターネットを人の役に立つように使え!」という山形浩生氏の考えに共鳴して、こんなことをやってみている次第である。ホントは前からやりたかったんだけど、まぁ、やる気がなかなかね……(権利関係? そんなの問題が起ってから考えれば良いじゃん!)。当方、中学生以下の英語力ですが、今回のはそこそこ日本語訳っぽくなっていると思う。



《Grido》


 作曲することとは、私にとって、「ある問題を解決すること」と一概にはいえません。そこにはある種のジレンマとの格闘があります。それはトラウマのようなものなのですが、一方で快楽を伴うものでもあるのです。というのは、作曲に関する技術的な挑戦に直面するということが(それは自然と気がついたり、自らその挑戦を選択していたりするわけですが)、それ自体、ある問題解決を運んでくるものと関係しているのです。このような状況は、私にとって、新しいものではありません。そして、私はその挑戦に失敗したときでさえ、本当の意味で発見をおこなうといった経験を持つことがあるのです。私は音というものを謎を含んだものだと捉えています。別な言い方をすれば、それらはすべてが「問題」であり、「トラウマをともなったジレンマ」なのです。本当の音楽とはそういった概念的な疑問を具体化したものなのです。しかし、この本当の音楽、という概念は疑問を残すものでしょう。なぜなら、今日において音楽はあらゆるところに偏在しており、いついかなるときでも手に入れられるものとなっているのですから。音楽は我々の市民社会に洪水のように溢れており(それは音楽消費者の魔法です)、それが普通になっていて、むしろ何の意味もなくなっているのです。この疑問が浮かぶ状況というのは、問題を隠蔽するものであり、集合的な真実を抑圧するものです。外側に見えるものは我々を抑圧するもので――それらはもはや真実を与えてくれません――内部にのみ我々の鋭敏な魂にとっての自由な空間が残されている、といえましょう。そして、その隠蔽された状況を覆すことが現代音楽の目的なのでしょう。

 私の弦楽四重奏曲第3番はこのとても難しい環境下から生まれた状況に対して応えるものです。私は同じ編成でふたつの作品を書いていますが、そこではどちらもこの作品とは違った背景がありました。そのとき私が直面していたのは「作品の統御」というゲームだったのです。《Gran Torso(1972)》と《Reigen Seliger Geister(祝福された魂の輪舞、1989)》というそれらの先行作品は、私の作曲におけるターニング・ポイントとなっています。《Gran Torso》において、私は休符、リズム、音色といった基本的な要素に向かうのではなく、音響制作の具体的なエネルギーといったものを変革することを例にとっています――このコンセプトを私はかつて「楽器によるミュージック・コンクレート」と名づけていました。弦楽四重奏から、私は効果的に16の弦をもった一つの身体を作り上げました。通常の音響、それとは違った音にならない音、呼吸のような音、または過剰に圧力を与えた音を演奏させ、その身体を酷使して具体化したのです。しかし、それは伝統的な演奏方法から、単にその楽器が演奏可能なものとして導き出すことができるひとつのヴァリエーションを表現したものにすぎません。18年後、私は2番目の弦楽四重奏曲を書きました。それが《Reigen...》になります。ここで私は、特殊奏法の開発という単一的な問題に注視し、これらの限界を乗り越えることのみ行っています。例えば「pressureless flautando(圧力をかけないフラウタンド*1)」を使用して、より音の影のような音を出す機能を例にあげることができましょう(音、というよりも音程がさだまらないもやもやとした音響の場合でも同じです。そこでは音程の影のようなものが音やシークエンスをコントロールしています)。それはまさに、刷新といったものであり、様々な面での改革でもありました――はっきり言って、対旋律を変革する、というものとして、でしたが。しかし、実際に、急激なクレッシェンドを使ったボーイングは、録音を逆回転再生したような効果を生み出すことができましたし、ピッチカートによって占められた音風景は、ガチャガチャと音を立てることによってこれまでとは違った音の世界を表現することができたのです。この両方の作品によって私は、弦楽四重奏曲にまとわりついた「トラウマ」を克服できたように思っていました。なぜなら、この2つの作品の中間期には、《Tanzsuite Mit Deutshlandlied(ドイツ民謡に基づく舞踏組曲)》という一種の弦楽四重奏曲とオーケストラのための協奏曲で、私はこの楽器の組み合わせからすでに効果的な作品を作り上げることができていたからです。


 さて、ロビンソン・クルーソーは彼が住んでいた島が開発されていたと信じていたでしょうか? 彼は新しい環境に腰を落ち着け、ブルジョワ的な平穏に満ちた、自立的な生活環境に戻ったでしょうか? それとも彼は自立した環境をもういちどズタズタに引き裂いてしまうべきだったでしょうか? あるいは彼は自分の根城から離れるべきだったでしょうか? 自分が行くべき道を捜し求めている彼にとっての、いまだかつて通ったことのない未踏の地とはなんだったのでしょう? 彼は自分がひとつの完成にいたったという自己欺瞞を破り、そして第3の弦楽四重奏曲を書くでしょう。そのような自己満足的なものは自分自身を騙すことにほかならないからです。芸術における進むべき道とは、どの道も道しるべと言うものがありません。終着点はどこにもないのです――いつかその過程のなかで終着点に近づいていき、いずれたどりつくなどというのはフィクションに過ぎません。我々は光も音もない世界を進まなくてはならないのです。


 《Grido》はイタリア語で「泣き叫ぶ声」を意味します。この作品はアルディッティ弦楽四重奏団の現メンバーである、Graeme、Rohan、Irvine、Dovに献呈されています。また、これはIrvine Ardittiからの「前の2つの弦楽四重奏曲よりももっと音量が大きい曲を書いてほしい」という要求を満たすものでもあります。





※ 《Grido》はメルボルン国際音楽祭、WDR、IRCAM、ザルツブルグ音楽祭、ルツェルン音楽祭による委嘱作品。初演は2001年2月11日にメルボルンにてアルディッティ弦楽四重奏団によって行われた(改訂版は、2002年4月27日。同じくアルディッティ弦楽四重奏団による)。



 自分をロビンソン・クルーソーになぞらえているのが面白い。あんなおっかない顔のロビンソン・クルーソーはいない。《Reigen seliger Geister》、《Gran Torso》についてはまた今度。



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 アルディッティ弦楽四重奏団による《Grido》の演奏映像。音質はあまりよくないが、どんな風に演奏がおこなわれているかが確かめられる。




*1:弓を指板の近くで使う奏法





2 件のコメント :

  1. 大変すばらしい試みですね。ぜひ続編もお願いします。ただ、少しだけ、気付いた点を。注釈*1の「双方」→「奏法」。pressureless flautando の解説部分の( )内、intervallically は音程、notes は音、という感じではないかと思います。(独語原文参照。)「急激なクレッシェンドを使ったボーイング」は、逆回転再生のような効果、だと思います。

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  2. コメントありがとうございます!指摘があった箇所後で訂正させていただきます!intervallicalryは辞書に出てなくて困っていたので、助かりました。英語の辞書も完全に受験用のものなので、音楽用語が完全にカバーできないんですよね……(一番重要なとこなのですが)。

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