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ピエール・ブーレーズ『ブーレーズ作曲家論選』




ブーレーズ作曲家論選 (ちくま学芸文庫)
フ゛ーレース゛
筑摩書房
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 奇しくも本日はピエール・ブーレーズ、85歳の誕生日らしい。そんな日にこの本を読み終えるとはなんとも感慨深いのだが、はっきり言って特に面白い本ではないと思う。今回初めてブーレーズによる音楽批評を読んだけれども「この程度なのかなぁ……」と言う感じ。かつては「オペラ座を爆破せよ!」などとアジっていた人だから、もっととんでもないことを書いているのかと思ったら、あまりにも普通なのだった。訳の調子はまるで退屈な蓮實重彦である。立派な作曲家であり、優れた指揮者であることは間違いないのだが、批評家としてはごく普通のレベルに留まるのかもしれない。分析から批評へと飛び立っていないこの感じは、少なくとも私個人的には求めるものではなかった。





 そこには音楽と言葉の関係の難しさが現れているように思われる。音楽を百パーセント、言葉に換言することはできない(もしできたとするならば、言葉は不必要なものとなるだろう)。このことはデリダやアドルノや、茂木健一郎に宛てた斎藤環の手紙を参照しなくとも分かりきったことである。しかし、その還元の出来なさのなかに批評の可能性は潜むのであろう。それぞれ別々なものを並べ、それらが互いに媒介するもののなかから新たな意味を生産すること。これがベンヤミンやアドルノがおこなった批評の戦略である。このような意味の跳躍ともいえる行為がブーレーズの批評には存在しない。ブーレーズの退屈な文章が伝えるのは、言葉によって音楽を言い表す、その限界に達したときの言葉の哀れさだ。





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