スキップしてメイン コンテンツに移動

eX.13「フランコ・ドナトーニの初演作品を集めて」 @杉並公会堂小ホール




曲目


フランコ・ドナトーニ(全曲日本初演)


Clair II [cl] (1999)


Che [tuba] (1997)


Duet no. 2 [2vn] (1995)


Small [picc, cl, hrp] (1981)


Small II [fl, vla, hrp] (1993)


Luci [alto fl] (1995)


Luci III [SQ] (1997)


The Heart's Eye [SQ] (1980)





山根明季子(新作世界初演)


Dots Collection No.05 ―フランコ・ドナトーニへのオマージュ― (2010)


[fl, cl, tuba, hrp, SQ]





出演


多久潤一朗fl, 菊地秀夫 cl, 橋本晋哉 tuba, 松村多嘉代hrp, 辺見康孝・亀井庸州 vn, 安田貴裕vla, 多井智紀vc, 川島素晴cond



 「eX.」は作曲家の川島素晴と山根亜季子が主宰する現代音楽コンサートのシリーズ。今回は今年が没後10年になるイタリアの作曲家、フランコ・ドナトーニの日本初演作品が特集だった。このシリーズに足を運ぶのは初めてだったが、次の演奏会も楽しみになるような興味深い企画だった。会場では細川俊夫や有馬純寿の姿を見かけ(ミーハーなので、そんなことでも興奮してしまいつつ)日本の現代音楽界の最先端を感じることができた。





 ドナトーニの作品は「オートマティズム」という作曲技法によって書かれている。この技法、プログラムに寄せられた川島による解説によれば「既成の素材に基づく自動化されたシステムによる作曲」であるらしい。そこでは素材を法則によって変形させ、さらにその変形体を別な法則によって変形させて……という連続で楽曲ができあがる。このとき、楽曲は「恣意性の排除」が行われた状態となる。そして、生成された音列から三和音を抽出するなどのある種の「調整」が加えられることによって楽曲は完成を迎える。





 こうして出来上がったドナトーニの楽曲は、川島が指摘するように現代音楽の典型的なイメージである「晦渋で不気味な音響」からは大きく距離をとっている。各楽器はベルカントのように響き、その美しい音色とともに発揮される技巧は聴く者の興奮を呼ぶだろう。独奏クラリネットのための作品《Clair II》は、その典型と言っても良いかもしれない。冒頭から何度もエチュードのような上行音形が繰り返され、微細に、時に大胆に変化していく。その模様を読み取るようにして聴くことも、暗号を解くような愉しみがあろう。





 個人的には《Small》、《Small II》というハープを含むアンサンブル作品が今回のドナトーニ作品特集のハイライトである。極小の、秘密めいた音量で奏される美しい音色が集中力をかき立てられた。





 演奏会のラストを彩ったのは山根による新作の初演。日本音楽コンクールで1位を取ったときに名前を知り、とても気になっていた作曲家だったのだが、今回漸く「音を視覚像として捉え、模様をデザインすること」がコンセプトとなっている彼女の作品に触れることが出来た。ハープによる小さなドット、その他の楽器による大きなドット、それらが断続的に現れては消え、現れては消えていくイメージが、非常にはっきりと描かれた作品のなかで、柔らかいアンビエンスが徐々に変化しながら形成されていく様子がとても面白かった。とくにハープ以外の楽器がトゥッティで大きなドットを描くとき、そこでは様々な奏法や音色が混ざり合い、錬金術的な色彩の魔術が感じられた。是非、大オーケストラのための作品も聴いてみたいと思った。





関連サイト


eX.(エクスドット)


山根明季子





コメント

このブログの人気の投稿

石野卓球・野田努 『テクノボン』

テクノボン posted with amazlet at 11.05.05 石野 卓球 野田 努 JICC出版局 売り上げランキング: 100028 Amazon.co.jp で詳細を見る 石野卓球と野田努による対談形式で編まれたテクノ史。石野卓球の名前を見た瞬間、「あ、ふざけた本ですか」と勘ぐったのだが意外や意外、これが大名著であって驚いた。部分的にはまるでギリシャ哲学の対話篇のごとき深さ。出版年は1993年とかなり古い本ではあるが未だに読む価値を感じる本だった。といっても私はクラブ・ミュージックに対してほとんど門外漢と言っても良い。それだけにテクノについて語られた時に、ゴッド・ファーザー的な存在としてカールハインツ・シュトックハウゼンや、クラフトワークが置かれるのに違和感を感じていた。シュトックハウゼンもクラフトワークも「テクノ」として紹介されて聴いた音楽とまるで違ったものだったから。 本書はこうした疑問にも応えてくれるものだし、また、テクノとテクノ・ポップの距離についても教えてくれる。そもそも、テクノという言葉が広く流通する以前からリアルタイムでこの音楽を聴いてきた2人の語りに魅力がある。テクノ史もやや複雑で、電子音楽の流れを組むものや、パンクやニューウェーヴといったムーヴメントのなかから生まれたもの、あるいはデトロイトのように特殊な社会状況から生まれたものもある。こうした複数の流れの見通しが立つのはリスナーとしてありがたい。 それに今日ではYoutubeという《サブテクスト》がある。『テクノボン』を片手に検索をかけていくと、どんどん世界が広がっていくのが楽しかった。なかでも衝撃的だったのはDAF。リエゾン・ダンジュルースが大好きな私であるから、これがハマるのは当然な気もするけれど、今すぐ中古盤屋とかに駆け込みたくなる衝動に駆られる音。私の耳は、最近の音楽にはまったくハマれない可哀想な耳になってしまったようなので、こうした方面に新たなステップを踏み出して行きたくなる。 あと、カール・クレイグって名前だけは聞いたことあったけど、超カッコ良い~、と思った。学生時代、ニューウェーヴ大好きなヤツは周りにいたけれど、こういうのを聴いている人はいなかった。そういう友人と出会ってたら、今とは随分聴いている音楽が違っただろうなぁ、というほどに、カール・クレイグの音は自分のツ...

なぜ、クラシックのマナーだけが厳しいのか

  昨日書いたエントリ に「クラシック・コンサートのマナーは厳しすぎる。」というブクマコメントをいただいた。私はこれに「そうは思わない」という返信をした。コンサートで音楽を聴いているときに傍でガサゴソやられるのは、映画を見ているときに目の前を何度も素通りされるのと同じぐらい鑑賞する対象物からの集中を妨げるものだ(誰だってそんなの嫌でしょう)、と思ってそんなことも書いた。  「やっぱり厳しいか」と思い直したのは、それから5分ぐらい経ってからである。当然のようにジャズのライヴハウスではビール飲みながら音楽を聴いているのに、どうしてクラシックではそこまで厳格さを求めてしまうのだろう。自分の心が狭いのは分かっているけれど、その「当然の感覚」ってなんなのだろう――何故、クラシックだけ特別なのか。  これには第一に環境の問題があるように思う。とくに東京のクラシックのホールは大きすぎるのかもしれない。客席数で言えば、NHKホールが3000人超、東京文化会館が2300人超、サントリーホール、東京芸術劇場はどちらも2000人ぐらい。東京の郊外にあるパンテノン多摩でさえ、1400人を超える。どこも半分座席が埋まるだけで500人以上人が集まってしまう。これだけの多くの人が集まれば、いろんな人がくるのは当たり前である(人が多ければ多いほど、話は複雑である)。私を含む一部のハードコアなクラシック・ファンが、これら多くの人を相手に厳格なマナーの遵守を求めるのは確かに不等な気もする。だからと言って雑音が許されるものとは感じない、それだけに「泣き寝入りするしかないのか?」と思う。  もちろんクラシック音楽の音量も一つの要因だろう。クラシックは、PAを通して音を大きくしていないアコースティックな音楽である。オーケストラであっても、それほど音は大きく聴こえないのだ。リヒャルト・シュトラウスやマーラーといった大規模なオーケストラが咆哮するような作品でもない限り、客席での会話はひそひそ声であっても、周囲に聴こえてしまう。逆にライヴハウスではどこでも大概PAを通している音楽が演奏される(っていうのも不思議な話だけれど)。音はライヴが終わったら耳が遠くなるぐらい大きな音である。そんな音響のなかではビールを飲もうがおしゃべりしようがそこまで問題にはならない。  もう一つ、クラシック音楽の厳しさを生む原因にあげら...

2011年7月17日に開催されるクラブイベント「現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」のフライヤーができました

フライヤーは ナナタさん に依頼しました。来月、都内の現代音楽関連のイベントで配ったりすると思います。もらってあげてください。 イベント詳細「夜の現代音楽講習会 今夜はまるごとシュトックハウゼン」