たけみた先生の翻訳によるルーマン『目的概念とシステム合理性』序論:行為とシステムを読んだよ!

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序論:行為とシステム |『目的概念とシステム合理性』 - たけみたの脱社会学日記

 id:takemitaさんによるルーマン私訳シリーズに『目的概念とシステム合理性』という著作の「序論」が加わっています。こちらはすでに日本のルーマン翻訳業界の第一人者である馬場靖雄先生たちによる翻訳が刊行済み。「読み比べ推奨!」とのことでした(勁草書房のルーマン本は装丁がカッコ良いなあ)。こちらは副題にあるとおり「社会システムにおける目的の機能」を検討した作品で、この副題を見る限りなんだか小難しい雰囲気がしますし、実際「序論」からかなり小難しいお話が続くんですけれど、読むための前提知識がたくさん必要なようには思われず、「目的」というものが思想のなかでどんな風に扱われてきたか、という思想史的なアプローチもおこなわれているようで面白そうです(ただしそれは『思想史を過去へときちんと葬り去ってやる』ためにおこなわれるらしい)。



目的概念とシステム合理性―社会システムにおける目的の機能について
馬場 靖雄 上村 隆広 ニクラス・ルーマン Niklas Luhmann
勁草書房
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 その思想史的なアプローチは「序論」からすでにはじまっています。お話はアリストテレスまでさかのぼる。このブログでもなんどかアリストテレスが世界をどのように捉えていたか、についてはちょいちょいと触れてきましたが基本的には「どんなものにも目的が存在してるんだよ」と考えてよいかと思います(超乱暴なマトメですが)。こういう風にアリストテレスが考えたのは、「運動」と「実体」というふたつの概念のあいだにあるディレンマを解消するためだった、とルーマンは言います。運動は、それ自体として表現することはできない。でもそうなると「存在者の存在は永続的である、つまり存在者が存在しなくなることはない、という存在論の前提が破綻してしまう」。だから、運動の本質に「目的」をおき、その目的の存在によって運動を表現可能とした、というわけです。これが伝統的な行為論における目的概念の機能でした。こういう考え方が、その後に長いあいだ自明視されてしまったため、「それを疑問視するような態度はまともな研究とはみなされず、ただの誤りとして否定」されていたそうです。




 こうしたお話をしたあと、ルーマンはちょっとした脱線をします。すぐに閑話休題、という感じで話を元に戻すんだけれども、この脱線はとっても面白かったです。リンク先にいくのもダルい方々のために、一段落まるまる引用しておきます。


西洋的な思考の原点にさかのぼり、そこから始まる思考伝統をたどること。今日の科学的研究なら、これが自由にできる。今日の科学は、一切の哲学的問いから完全に遮断されているからだ。ところが、その遮断されているということが、また再び研究の自由を奪う。科学が哲学とのあいだに不透過境界をつくったのは、もともとは、伝統の過剰な圧力から研究の自由を守るためだったはずだ。ところが、その伝統の力が壊滅してしまった今日においては、それが反省を封じる足枷となり、そのせいで科学の視野狭窄が起こり、かつての哲学思考に対するあまりに狭隘な解釈すら珍しくない、という有様になっている。そのせいで、科学的研究で用いられる基礎概念や問題設定は、かつての哲学的伝統からすれば枝葉の、その研究分野でしか通用しない、かつ最後まで考え抜かれていない浅薄なものとなり果てている。要するに、今日の我々を取り巻く状況は、かつてとは反対なのだ。だとすれば、存在論的伝統への指向は、よく引用される思想財を単に継承するというのではなく、適切な距離をとり、伝統との対話という形で行われるのであれば、それは自由の獲得を意味しうるはずなのだ。


 「科学的研究で用いられる基礎概念や問題設定は、かつての哲学的伝統からすれば枝葉の、その研究分野でしか通用しない、かつ最後まで考え抜かれていない浅薄なものとなり果てている。」 これ特に良いフレーズですね。




 で、目的概念の話もどりますが、伝統的な行為論はもう使いものにならんよね、というのがルーマンの分析。伝統的な行為論のなかでは、目的っていうのは実現すべき価値で、それ即ち真理だったわけ。でも、そういう前提は時代が下るとなくなってしまったんだって。科学の時代においては、目的っつーのは真理じゃない。「真理でありえないものが、科学の基礎となるわけにはいかない」らしいです。そういう時代において、目的はどのように捉えられたか。ルーマンが言うところによれば、それは「主観的な態度」として捉えられました。


これはこういう理屈である。まず、なにかが真理であるためには、「機械論」的な因果関係のなかに組み込まれていなければならない。次に、目的をその因果関係のなかに組み込むには、目的は未来ではなく現在に存在するものと考える必要がある。そして、目的が現在に存在すると考えるには、目的とは主体による表象のことだ、と考えるしかない。こうして、目的とは現在に存在する表象であり、それが未来に起こる出来事の原因となる、と考えられるようになったわけだ。つまり目的とは未来の状態である、などといっていたのでは、目的から真理としての資格が失われてしまうために、そうではなく、目的とは行為主体が未来に対する自分の態度を決定するための、その主体に固有の観点である、というようにいわれるようになったわけだ。


 このへんはとても話がややこしく感じるところ。こうした考えのもとでは、行為をおこなう人は自分で価値基準を作り上げて、目的を設定し、それ以外の結果はどうでもいいもの、として中立化されるんだって。そして、目的があって、行為があるのではなくて、行為(システム)がすでに存在していて、それが目的を設定する――という構図がそのとき考えられる。「選択する主体というものの地位は上昇し、もはや目的に束縛されるものではなくなった」というわけですね。実存主義になると、主体の選択というのがなんらかの合理性を超越したもの、と捉えられる(主体の選択は正しい! みたいな感じ?)。しかし、こうなってくると社会というのは複雑になっていくよね。俺が選択する主体なら、アイツも選択する主体なわけで「アイツはこうするだろう」という予測が絶対じゃなくなってしまう。それにもう、なにをしたら合理的な選択なのか、というのがあらかじめ決まっているとも考えられなくなってしまう。そうなってくると、合理性の概念も所属しているカテゴリも変わってくるよねー、云々……といったところで「序論」はおしまいになります。続きは、ピンチョン全集やラテンアメリカ文学などの積読が片付いたらちょっと読んでみたい、と思いました。そういえば


今後の私訳公開予定。1. 社会的システム理論としての社会学,2. ルーティン礼讃,3. 機能的方法とシステム理論,4. 真理とイデオロギー,5. 比較行政学の展望,6. 機能と因果,7. 目的・支配・システム,8. 行政行為は経済的にできるか,という感じかな。

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 こんな話も。楽しみですね!!

 




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