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DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN @日比谷野外音楽堂




FRANZ KAFKA’S AMERIKA
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DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN
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 強い雨のなか雨合羽を着て日比谷野外音楽堂に集う観客(自分を含む)の姿になにがしかの宗教行為を待ち続ける信者の姿が重なって見え(復活を待ち望む、という意味を含めて)たりもし「このクソ寒いなか、音楽を聴こうとしている俺らってホント物好きだよな……」などと友人に言ったりもしたのですが、行ってきました。DATE COURSE PENTAGON ROYAL GARDEN。すげー良かったです。やはりDCPRGは偉大なファンク・オーケストラであり、日本のジャズ系のオーケストラでは熱帯JAZZ楽団しか知らなかった私にとって特別なバンドとなっているのだな、と思いました。「ジャングル・クルーズにうってつけの日」で、音量が爆発的に大きくなった瞬間、うわー、きたぞ、これは、と感激し、こうした瞬間にブルックナーなら号泣してしまうんですけれども、このバンドだと顔面が崩壊するほど笑ってしまいます。





 ジャズの人が自分のバンドに若い人を向かいいれること、これってひとつの伝統みたいなものだと思うのですが(マイルスもそうでしたし、まあ、メンバーが有名になっていくとギャラがあがったり、スケジュールがとれなくなったり、とバンドの運営が難しくなる、という事情もあるのでしょう)それに則って、今回の復活ではリズム隊を総入れ替えがおこなわれている。印象、ですけれども左右のドラムは前と違って、どちらかが偶数拍子をはっきりと提示して、どちらかが奇数拍子をはっきりと提示する、といったものではなく、両方とも非常に手数をめちゃくちゃに増やしながら別々のリズムを演奏していた、ように思われました。これがひとつの液状化現象みたいな感じに響いていて、とても気持ちよかったです。前よりもカオス。ポリリズムによって生まれるズレの単位が細かすぎて、クラスター化してる、っつーか。この感じ、どんどん良くなるんだろうなあー、ということで次のライヴ、次のアルバムに期待したくなりました。京都公演にいく方、期待して良いとおもいますよ!





 個人的なハイライトとしては、坪口昌恭が赤いショルキーを持って登場し、ジミヘン化した小室哲哉(あるいはヴァン・ヘイレン化したヤン・ハマー)的なパフォーマンスを見せてくれたところ。もちろん、ここで爆笑。あと、リッチー・フローレスも驚異的でした。それからアンコールの「Mirror Ball」のときに、前の席で観ていた男女のカップルが、合羽を脱ぎ捨てて踊りはじめたのも良かった。まだ雨降ってたのに。でも、セクシーだ、と思った。そういうのって、楽しそうじゃん、なんかそれが目に入った瞬間、ああ、音楽って偉大、って思って愛とかそういう恥ずかしい言葉を叫びたくなったよ。で「アイツら、このあとガンガンにセックスするんだろうなー、近くにホテルとかとってんだよ、絶対」とか言いつつ、私は友人たちと飲みに行きました。





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