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Caetano Veloso e Maria Gad�/Multishow Ao Vivo



MPBのリリース・ラッシュがとまりません。先日『zii e zie』のライヴ盤/DVDをリリースしたばかりのカエターノ・ヴェローゾが、昨年、若手女性ミュージシャンのマリア・ガドゥとおこなったデュオ・ツアー最終日の模様を収録したCD/DVDをリリースしています。マリア・ガドゥがデビューしたのは、2年前、まだ24歳だそう。先日ご紹介いたしましたアントニオ・ロウレイロもそうですが*1、今のブラジルって恐ろしい才能がポンポンでてきてどうなっているのだ、アレか、これはブラジルだけじゃなくてBRICsに目を広げていったらもっとスゴかったりするのか、とよくわからない気持ちにさせられます。私が購入したのはDVDで、収録曲と値段はCDと変わらないのだけれども、DVDにはこのDVDのメイキング映像がおまけでついてくる。このメイキング映像がなかなか面白くて、カエターノとマリア・ガドゥがお互いに音楽的影響について訊ねあうところなどが興味深いです。日本語字幕はないものの、英語字幕はついているので多少英語ができるならば楽しめるかと。「17歳でジョアン・ジルベルトを聴いて何もかもが変わってしまった」と語るカエターノには胸が熱くなります。





マリア・ガドゥのパフォーマンスに触れるのはこれが初めてですが「歌姫」というよりかは「野生児」という表現が良く似合う、天性のミュージシャンだと思いました。なんというか「ロック姉ちゃん」風の勢いがある。彼女が座る椅子の脇には、赤と白のワイン、それからチェイサーの水が注がれたグラスがそれぞれ3つ置かれていて、局間にそれを飲みながらライヴを進めていくのですが、エネルギッシュでややハスキーな歌声は、時間が経つごとに伸びやかになっていく。DVDは最初にデュオがあって、マリア・ガドゥのソロがあって、またデュオがあって、カエターノのソロがあって、最後は再びデュオで……という構成でおこなわれますが、マリア・ガドゥのソロで気分が高まっていく様子が映像からヒシヒシと伝わってきて面白い。でも、それが演出的じゃないんですよね。そこがやっぱり観ていて気持ち良いし、この24歳はすげーな、と思いました。






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しかし、カエターノ御大の深みには彼女の天性も圧倒されてしまう。マリア・ガドゥのソロが終わったあとのデュオで、カエターノが入ってきて歌いだしたとき「やっぱり、この人は全然違う」と思わされるのでした。声の柔らかをとっても、ギターの抑揚をとっても良いでしょう。マリア・ガドゥが小娘に思えてしまう大先生的なパフォーマンス。ヴェテランの余裕を持って、若者を引き立たせようとする紳士風の振る舞いがまたカッコ良い。マリア・ガドゥが初めて作った曲だという「Shimbalaie」をカエターノのソロの最後で歌うのですが、これがめちゃくちゃ良い歌声で、作曲者である彼女が涙してしまう、というシーンは何か世代を超えたミュージシャン同士の共振を見せられるようで感動的です。






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diskunion: ■BRASIL CD/DVD ★強力盤★ 入荷■カエターノ・ヴェローゾ&マリア・ガドゥ デュオ・ライブ! ブラジル知性の象徴と、デビュー2年で一気にスターダムへと上り詰めた♀MPBインテリジェンスが、親子以上の年齢差をもってして相思相愛のステージで魅了する2011年


なお、この盤もアマゾンでは取り扱いがありません。これもディスクユニオンが一番手に入りやすいのかな。私は今日新宿のディスクユニオンで購入したんですけれど、イケメン風の店員のお兄さんがハンパじゃない知識を披露していて「ああ、ラテンアメリカものはこの店で買っておけば間違いないな」と思ったりしました。





追記:現在は取り扱いがあります。



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Multishow Ao Vivo
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Caetano Veloso & Maria Gadu'
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